写真資料室

南海タイムスで掲載された八丈島の特集記事です。
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1753年の南京船漂着 八丈島に残った日中交流史


1753年(宝暦3)12月10日、八丈島に清国船(=南京船または唐船)が漂着した。71人が乗った同船は日本との間の貿易船で、長崎を目ざしていたが、途中2度も暴風に遭い、主帆柱も折れて航海不能になった。そうして漂着したのが八丈島だった。この記録は、中国古代史と日中交流史が専門の関西大学名誉教授で皇学館大学学長・大庭脩氏の手で1冊の本になっている。『寶暦三年八丈島漂着南京船資料』(関西大学出版部)である。漂着から帰国までの関連文書がほぼ揃っているため、日中関係史を研究するうえで貴重な資料とされている。
 
 同書の巻頭には、漂着した船員たちの肖像画がカラーで収録されている。流人絵師・狩野春潮が描いたものだ。  大庭氏の近著「漂着船物語──江戸時代の日中交流──」(岩波新書)は、日本各地に漂着した中国船の興味深いエピソードを紹介しているが、宝暦3年の八丈島漂着の話は第一章に登場している。

 『物事がまともに進んでいる時はあまり資料は残らず、事故があった時に資料が残るという原則は、積荷を詳しく報告しなければならない難破船の場合でも言える。これが、資料を探すきっかけになった』と、大庭氏。著書「漂着船物語」の原点という。
 漂着した商人と水主71人が離島したのは宝暦4年。下田からの11艘の迎船に唐人は荷物とともに分乗し、6月25日までに下田へ着いた。その後、全員が長崎へ船で送られ、そこで商売を終え、同年8月から翌年1月10日までに唐船に便乗して帰国を果たしている。  八丈島滞在中に、中国人は破損した船材の一部で長楽寺に山門を築き、そこに山門の由来を記した漢文の門額記=現代語訳を別掲=を残している。このほかに、同寺に荘厳具の聯や扁額も寄贈した。が、昭和20年6月10日、米軍の空襲で長楽寺は焼失し、異彩を放っていた中国風の山門も姿を消した。
 文献資料は、長戸路家古文書「宝暦三年八丈島に漂着南京人之訳書上」(東京都公文書館)や、国立公文書館内閣文庫蔵の「宝暦酉年漂着唐船細故」などだが、写真がない時代の写真資料も貴重。『画法は忠実な写生で、中国人の生き生きした姿がとらえられている』と、大庭氏は「漂着船物語」で述べている。

 船材で築かれた山門

 屋根が丸みを帯び、エキゾチックな造りだ。奥に額記が掲げられていた

 門額記を現代語訳

 漂着した中国人たちは八丈島に滞在中、破損した船材で山門を作り、長楽寺に寄贈している。山門には、船主の程剣南、高山輝ら3人が記した漢文の額記が掲げてあった。その額記の大意を、下記の現代語に訳したのは、明・清時代の仏教と、その日本仏教への影響を研究している早大大学院生・野川博之さん。その額記からは、島側の救援活動への感謝の思いや、当時、長楽寺が建っていた大賀郷大里の情景も伝わってくる。




流人絵師・狩野春潮が描いた漂着中国人の肖像画の1枚。
船主の高山輝と乗組員、犬。
『寶暦三年八丈島漂着南京船資料』





流人絵師・狩野春潮が描いた漂着中国人の肖像画の1枚。
タケノコを見つけたところ。




流人絵師・狩野春潮が描いた
漂着中国人らの肖像画の1枚。



感謝の思い込めて  
  中国人が記した長楽寺の門額記

 海雲山長楽寺は、日本の伊豆国八丈島にある古寺である。(背後には)山が高々と青く聳えたち、境内には木々が生い茂っている。茅葺きの建物が数棟あるばかりであるが、たるきや柱にきらびやかな彩色の施された名だたる寺院に優るとも劣らない(おごそかな)たたずまいである。
 寺をめぐる山々は、さながら(わが中国の東南の海上に浮かぶ観音菩薩の聖地・)普陀山と見まがうばかりである。往古、この寺を開創した人は、(我々を救援してくれた島の有力者の一人、)菊池武郷氏のご先祖である。そして現在、この寺を守ってご本尊観世音菩薩をお祀り申し上げている人は、わが国(中国)の先の王朝・明の僧侶宗感師の六代の孫、通詮師である。寺が開かれてから、今年で二百八年になるが、その間、歴代住職は心静かに修行にいそしみ、ご本尊をお守りして来られた。ご本尊は、(『観音経』に見える「甘露 の宝雨を ぐ」とのお偈文 にたがわず、)生きとし生けるものに雨のごとくお恵みを施され、かぐわしい雲をこの人間界ばかりか、あまねく十界のすべてにお敷き及ぼしである。
 ところで、我(々)は、癸酉(宝暦3年)の年の冬、航海中に嵐で正舵を失い、一時はもはやこれまでと観念したが、さいわいに神様のお声なきお助けをいただき、ここ八丈島に漂着できた。のみならず、島長の菊池正武氏や、島内有力者諸氏のお心づくしを蒙り、乗組員71人のすべてが天から本来与えられた寿命を全うできた。我(々)は長楽寺では半年にわたってお世話になったが、この間、ご現住の通詮師には、朝夕ご慰問をいただき、師は先祖の国の人間である我々をすこぶるお憐れみくださり、こまやかなご厚情の数々には、まさに同郷のよしみが感ぜられたことだ。
 我(々)にはとりたてて文才もなく、賦を作ることもできなければ、碑文もものせず、ただ僅かに我々の感謝の気持ちを(額の上に)文章でしたため、これをこのたび新たに山門の上に掲げ、後世へ伝えんとするばかりである。  時に大清乾隆19年(日本宝暦4年)甲戌の年の4月、この山門を建立する。願わくは後世の同信の方々が、この門の整備・修繕に喜んで奉仕され、この門がいつも創建当時の姿を失わず、千年ののちまで崩れることがないように。さすれば、その功徳は計り知れないことでありましょう。


宝暦4年3月  
江南は雲間の程剣南、
浙江は 渓の高山輝、
福建は榕城の董昌仁、
並びに全乗組員ら建立す。



流人が筆談で通訳

 宝暦3年に八丈島に漂着した南京船の乗組員に対し、八丈島側はどう対応したか──。そのエピソードの一部を、「漂着船物語」から拾った。
 大賀郷沖に船影を見つけた同年12月10日、島では合図の火をたて、島と小島から漁船数艘を出して様子を尋ねさせた。しかし、言葉が通じない。このため、3人を陸へ連れてきて、筆談で情報を交わすことになった。和訳する役は、子どもたちに読み書きを教えるなど学識があった流人、和田藤右衛門があたった。
 唐人側は、高山輝、程剣南の署名で水五桶、酒二桶、米二千斤、大根菜、菜各二百斤、魚五十斤の支給を求めてきた。その書函には、巨大な浪に襲われて船が沈みそうになり、やむをえず貨物八百余包を捨てたことなどを説明し、『幸いに御地に漂着し、島長の御仁慈と垂憐の救護をいただき、船中一同命拾いをすることができました。まさに再生の日を迎えて万感無量であります』と記されている。
 舵も帆柱もない船は航海不能とあって、船主の高山輝ら2人のほかに、8人を上陸させ、百姓甚三郎の蚕屋をあけさせて宿泊するように取りはからう。しかし、なお船には水主60余人と荷物約1千2、3百包あるので、陸揚げしたいとの問答が行われた。このため沖にある船を八重根の津へ引き入れ、漁船で少しずつ揚げる指示が村々へ出された。
 荷物はまず江戸府御用の品(香木、人参、書籍、竜眼肉など)から揚げ、5日がかりで全荷物を揚げ終わった。記録によると荷物の中身は鉛、砂糖、薬類が多い。糸や反物などがまったくないことから、「船足を軽くするために捨てた貨物の内訳がこれら繊維製品だったのではないか」と大庭氏は同書で推測している。  
  荷揚げのあとで、唐人側は、島長はじめ役人や書記、宿泊場所になる長楽寺、荷揚げ時のけが人、荷物番人などに対する謝礼として白糖を何斤ずつ進呈すればよいかの問い合わせもしている。結局、船は破損し、その船材で長楽寺の山門が作られた(くわしくは6面に掲載)。
 島の地役人は海が静かになる3月を待って、下田の山本平八郎代官宛に報告書を届け、指示を仰いだ。古文書「漂着唐船細故」には、2月いっぱいまでに唐人に支給した米は83俵1斗2升と記され、「唐船漂着働覚」には、2月までに漁船33艘、人足5481人、牛628匹(牛は八丈島、小島、青ヶ島から集められた)の労力がはらわれたことが記録されている。  下田からの迎えの船の到着、唐人の帰国までの話は6ページに掲載した。
 大庭氏の著書「漂着船物語」を通して、当時の中国人の信仰心の厚さや精神世界をも知ることができる。同書は、日中の普通の人々の心温まる交流史に光をあてたものといえる。


多かった 中国の漂着船

『八丈島の歴史は一面において漂着の歴史といえるほど、国地並びに国外(中国大陸)の漂着船が多いことは他に類例をみないほどである』と、「八丈島誌」にある。

 古文書の記録では、1474年から1865年までの390年間に199艘の漂着船が確認されているが、長享元年から万治年間までの186年間と、寛保から明和までの31年間は不明なので、実数はさらにこれを上回るとみられる。1710年(宝永7)だけで、八丈島、青ヶ島、小島に13艘が漂着したとの記録もある。  

  特に注目されるのは中国からの漂着船で、1392年(明徳3)11月4日の明船の漂着が八丈島の漂着船の最も古い記録だ。これは明国の大船で、400人近くが乗っていたが、同夜の西の強風で、31人が即死し、上陸したもののうち46人が翌年餓死し、残りの308人がこの島に在留したと記録されている。

  1350年の足利時代の代官、奥山伊賀守が開基したとされる観音堂の放光山大善寺に居住させたのが、この1392年に漂着した明僧の宗閑で、さらに155年後の1547年に漂着した明僧の林氏宗感に、時の代官菊池武歳があつく帰依し、大善寺を長楽寺と改名して宗感をこの寺の開祖とした。

  宝暦3年の清国の難破船の乗組員が、長楽寺住職、通詮師の世話になったのも、祖国が同じだったという「同郷のよしみ」があった。
 『何れの頃か華人流れ来る。其墓所村々にあり』(「園翁交語」)という一文も、いかに多くの中国人が八丈島に漂着し、島で他界したかを物語っている、と「八丈島誌」に記述されている。



明治の漂着船

 明治25年12月28日、和歌山県の勝浦沖でサンマ漁をしていた漁船21組(1組が3隻)が突然起こった北西の暴風に見舞われ、749人中458人が遭難し、229人が八丈島、青ヶ島、御蔵島に漂着し、救助されています。