写真資料室

南海タイムスで掲載された八丈島の特集記事です。
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 青ヶ島の天明噴火  残酷物語が一転

 

2008年10月10日発行



1人残らず救出  古文書に記載 青ヶ島で千葉大学主催の講演会

 

 青ヶ島村(人口181人)の最後の噴火は1785(天明5)年。この噴火で130〜140人の島民が取り残されて亡くなったとされているが、古文書にはどこにもその記述がないことがわかった。9月12日、青ヶ島で開かれた千葉大学主催の講演会で、同大学大学院理学研究科・津久井雅志准教授が報告した。噴火の様子を詳しく知ることができる当時の公文書や民間の資料には、いずれも203人が1人残らず避難したとあるが、青ヶ島の噴火災害史は、噴火から42年後の1827(文政10)年に流罪となった近藤富蔵の著書『八丈実記』に出てくる脱出劇が参考にされ、阿鼻叫喚の残酷物語として広く世間に伝えられている。菊池利光村長は「新しい発見があれば、書き換えられるのが歴史」と語り、村史の修正も検討していく考えだ。

 講演は9月12日、昼間は小学6年生と中学1、2年生9人を対象に青ヶ島中学校で、夜は村民を対象におじゃれセンターで、それぞれ行われた。 
 地質、火山噴火史の研究が専門の津久井准教授は「太平洋プレートとフィリピン海プレートの境界に沿った伊豆諸島はすべて活火山」と説明した。
 00年の三宅島の噴火では、地下のマグマ溜まりが空っぽになった。このため大規模な落ち込みが続き、頂上部に直径1.6キロ、深さ500メートルの大きな穴(カルデラ)ができた。これは、直径1.85キロ、深さ300メートルの青ヶ島のカルデラ(池の沢のへこみ)とほぼ同じだ。
 「青ヶ島の過去の大きな噴火は、3500年前、2900年前、2400年前と推定されている。このカルデラがいつの噴火で形成されたのかはわかっていない」。津久井准教授はこう解説し、滞在中は島内の地質を調査して回った。
 青ヶ島の噴火史については「さらに新しいことを知るために古文書をもう一度きちんと読んで、天明の頃、何があったのかをぜひ勉強してください」と呼びかけた。
 生徒からは「いつ噴火するのか」などの質問が出され、津久井准教授は「時期は簡単には言えない。青ヶ島は周囲が崖に囲まれていて、夜間や天候、海況の悪条件時にどうやって避難するかを確立しておく必要がある。ただ、兆候は観測システムでつかまえられる。家族で話し合っておくといい」などと、減災のための注意点も指摘した。  この日は、千葉大学の伊勢崎修弘教授が「青ヶ島とプレートテクニクス」を、大学院生の松尾淳さんが「青ヶ島内部の高温地帯の特定について」をそれぞれ講演。3年前から青ヶ島で行っているGPS観測などの研究成果の報告で、近く論文が発表される。



  


200年前にあったこと  難航路命がけで

 青ヶ島の歴史時代の噴火は、天明の頃(1785年)のものが一番大きかった。噴火前は池の沢に大池、小池があり、飲料水や田畑の灌水が不足することはなかった。
 最初の異変は1780(安永9)年に起こった。池の沢で湯が湧き出し、大池の水位が6メートル、小池が10メートル上昇した。翌年は灰が噴出し、年貢の白糸を生産するのに必要な桑の木も枯れた。この報を受けた八丈島では、大賀郷の年寄役・忠治郎が貯蔵米を船に積んで検分に向かった。
 手漕ぎの帆船にとって八丈島〜青ヶ島間は想像を絶する難航路だった。年に一度の渡海船を出せない年もあり、だいたい二度に一度は遭難していた。忠治郎の船も帰りは千葉へ漂着、その後出帆するが三重へ漂着している。  天明の頃といえば、全国的に大飢饉の時代。八丈島も凶作で、幕府は1783(天明3)年から3年間、流人を送ることを見合わせていた。
 災厄は続いた。1783年に池の沢で噴火。そこにいた男女14人が行方不明になった。集落では61軒が焼失した。
 このとき、青ヶ島にお囲い穀物を届けた末吉の年寄役・浅沼源左衛門の船は、帰路、風が悪く千葉に漂着。浅沼はそのまま江戸へ向かい、青ヶ島の惨状を役所へ報告した。この報告のおかげで翌1784(天明4)年以後の年貢諸役免除、御救い穀支出の処置が下されることになった。
      


 青ヶ島はその後、1年間は平穏だった。穀物の支援を受け、植えた桑の苗木も成長を始めた。が、1785(天明5)年4月18日に噴火。この時の火炎は八丈島からも確認でき、すぐに検分の船が向かい、周囲から着船を試みたが、噴石で港に着けず、引き返している。  5月7日、青ヶ島の名主・七太夫ら9人が八丈島に向かい、救助の船を要請し、噴火の実状を詳細に報告した。それによると、池の沢が突然白煙、黒煙を吹き出し、大地が震動して火石が飛び、砂土が降った。幸い人家のある方には、砂土は降っても火石は届かなかった。しかし、島民は飲み水に困っていた。  八丈では海況が良くなるのを待って5月19日、樫立村名主・市郎右衛門らが救援の穀物を積んで青ヶ島へ向け出帆。島民45人を乗せて帰った。次の救済の船3艘が出帆できたのは6月4日。この3艘で残っていた人全員が避難した。  避難者の数は、前々からすでに渡っていた40人のほか、注進船で名主ら9人、検分帰りの船で45人、同27日の2艘で96人、渡海船で12人の計202人(ほか流人1人)。



韮山江川文庫資料

 公文書やこの文書は、八丈島に避難した203人(男74人=流人1人含む、女129人)に対する約81石分(金額で92両3分)の救援米を求める御救伺書で、特に女性の人数中に含まれている60歳以上の老人と15歳以下の子供計57人に対する手厚い救済を求めている内容だ。
 青ヶ島村教育委員会所蔵の古文書『八丈島小島青ヶ島年代記』と『青ヶ島諸覚(旧名主佐々木家蔵)』にも、韮山江川文庫の古文書『御救伺書』と同じ内容が記載されている。樫立村名主の船1艘と補理船など3艘が遣わされ、「流人共に残らず引き払い、海上つつがなく八丈島に着船した」とある。
 『年代記』には、八丈に避難している人たちのために1785年10月、米麦大豆3品(92両3分)を積んで八丈へ向かった船2艘のうち、中之郷の山下輿左衛門の預かり船は無事到着したが、樫立の服部源蔵の預かり船は破損流失し、9人が溺死したという記載もある。この記録により、江川代官が『御救伺書』で、勘定所へ申請した通りの救援穀物が江戸で積まれたことがわかる。


焼死より餓死多く

 天明の噴火から11年後の1796(寛政8)年に伊豆諸島を巡見した代官・三河口太忠の検分記録にも、青ヶ島の人々が残らず避難したこと、焼死よりも餓死が多かったことが記されている(『伊豆諸島巡見記録集』緑地社刊)。噴火前の1774(安永3)年の青ヶ島の住民は328人だった。
 全島民が避難したことは、1838(天保9)年に伊豆諸島を巡見した代官・羽倉外記(げき)の日記にも出てくる。「島中の生き残った者はすべて八丈島に避難した。近ごろ、もと名主の佐々木次郎太夫という者が、旧住者を移して、今はじめて年租を納めることを申請した」(『南汎録』緑地社刊)とある。  「島に帰りたい」。望郷の念を抱いて八丈で暮らした青ヶ島の人たちは帰島へ向けて大変な復興作業を進め、1824(文政7)年、全島民の還住を成功させた。検地が行われたのは噴火から50年後。60年近く絶えていた年貢の絹糸が納められたのは1840(天保11)年だった。

 旧暦の日付は新暦に直しています。(編集部) 

 


富蔵が書き加えた脱出劇

 近藤富蔵は偉大な記録魔だった。古文書を書き写し、『八丈実記』を世に残した。単に文書を書き写すだけでなく、「案スルニ」と主観を書き加え、創作もした。八丈島の始祖伝説「丹那婆伝説」もそのひとつで、引用本にある伝説は、丹那婆伝説とはまったく違う。『八丈実記』にある青ヶ島の脱出劇は次の内容。  「三艘ノ助舟ヲ見テ歡喜ハマタイカバカリ嬉シカリケン。一百八人ノ男女スミヤカニ舟々ニ助け乘テイソギ漕戻セバ、乘リオクレテ取殘サレシ老人、幼兒火炎ニコガサレ烟ニムセンテ岩ノウエニフシマロビ波濤ノウチニ浮沈シテ、助ケテクレヨト泣サケベト、舟ハ少サシ人ハオオシ、猛火ニ焦レ潮ニオボルル、苦シミヲ見ル見ル殺スゾ是非モナシ、大凡一百三四十人ノ死亡ト覚タリ。青ヶ嶋盡ク燒亡スルニヨリ在住ノ長幼二百二人八丈エ遁レ渡シ者共、知己ノ家々ニタヨルト雖トモ衣食ニ困乏セリ」  『青ヶ島島史』(小林亥一著)は『八丈実記』を多く引用し、「船べりに取りすがったものを、鉈でその手首を切り落とした」と、強調して書いている。この残酷物語はマスコミを通して全国に紹介された。



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