7年間の熱いドラマ! 谷田部啓一さんの手記
3月6日開幕したサッカーJリーグ。島民の期待を集めるのが、アルビレックス新潟の背番号「25」、奥山武宰士選手で
す。小学校時代から「Jリーガーになる」という夢に向かって歩んできた武宰士選手と、それを支えてきた家族の7年間の記録「少年武宰士ものがたり」を、2010年2月19日から連載しています。
執筆者の谷田部啓一さんは「記載内容に関しては未確認情報や思いこみも混在しています。事実と異なる部分はご愛敬としてご勘弁ください」とのおことわりも。武宰士選手の成長の物語をお楽しみください。
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風雲編 1
どうすればプロになれる?
2001(平成13)年4月、私は転勤で八丈島へ赴任した。太平洋に浮かぶこの島は平和な時間が流れていた。地元の人たちと交流を持ちたいという思いから、地域の小学生のサッカーチームのコーチを引き受けた。
その少年は当時10歳、小学4年生だった。チームのコーチは総勢8人。新入りの私は5、6年生コーチのアシスタントとなった。
練習は毎週土曜日。その少年は別の練習グループだったが、プレーは異彩を放ち、尋常なレベルではなかった。私は次第に少年の存在が気になるようになっていった。
そんな気持ちを察するのか、少年も私に話しかけてくる。あるとき「将来プロになりたい。どうすればなれる?」という率直な質問をぶつけられた。「練習すればなれる」。このありきたりなやりとりをきっかけに2人だけの居残り練習が始まった。
完全なるエコヒイキ、チームの指導者としては失格だ。2人だけの練習がエスカレートし、平日の早朝練習も始め、他のコーチから注意されたこともあったが、少年の情熱に真剣に向き合いたかった。妻や上司からもたびたび「やりすぎ」と言われたが、聞く耳は持たなかった。
雨で練習が中止の土曜日や日曜日は、私の家に来てサッカー談義に盛り上がった。33歳と10歳が同等レベルで話をする。妻はあきれていた。
この少年に、わずかではあるが自分の経験を伝えたかった。自分にできなかったことへ挑戦してほしかった。
少年の表情はいつも真剣。目にはお星様がキラキラ輝いていた。
×
人生のターニングポイントは、何気ない会話からやってきた。
少年は高校から東京に出て帝京や市立船橋に行きたいと希望していた。本土に親戚もなく、中学まではこの島で送るのは当然で仕方がないことだというのは、私も充分理解していた。にもかかわらず、なぜか非常にくやしい感情に包まれ、それを抑えることができなくなった。
「高校生になってからではもう遅い!」
気がつくと、私はこんな言葉を発していた。妻からは「思いつきの発言は無責任でしょう」と、とがめられた。少年の天性の実力、センスを世に知らしめたいと強く思った。それゆえにこの大器が中学時代の3年間を島で過ごすことが正直「くやしかった」のである。
私の無責任で大人げない発言は少年の心を傷つけたに違いない。翌日、様子をうかがいに少年の自宅を訪ねて、驚いた。
少年の母親が「息子がとんでもないこと言い出した」というのである。
(2010年2月19日付 南海タイムス)
風雲編 2
受験だけはさせるから、目を覚ましなさい!
「お母さん。中学から東京へ行きたい。高校生からじゃ手遅れになる」
「そんなこと言ったって誰と行くの。行けるわけないじゃない」
「一人で行く」
こんな親子のやりとりが数カ月続いた。1週間、2週間、1カ月、2カ月が経っても少年の情熱は消えない。むしろこの「しつこさ」は見事なほど。目を輝かせながら「行きたい」と訴えてくる。
どうにもならない状況は運命ではあるが、なんとか希望を叶えさせることはできないだろうか。私も責任を感じていた。何かいい方法がないか…。
アイデアが浮かんだ。
日本のトップレベルのチームを受験してみれば、現在の自分の位置、すなわち「己のレベル」がわかり、納得できるはずだ。それに今後のトレーニングの目標も明確になると考えた。
どうせやるなら日本一のチーム。関東では千葉県柏市を本拠地としているJリーグチームだ。ここの小学生チームは毎年、全日本少年サッカー大会のベスト4に残っており、この年も全国3位の成績を修めていた。
調べてみると入団テストは毎年何百人も受けるが、1人も受からないこともしばしばらしい。現在所属している子どもより力が上でないと合格させない方針という。気持ちが燃え上がっている少年に、現実を知ってもらうには持ってこいだ。チームのレベルや練習内容を調べた範囲で少年に伝えてみた。
話が終わると予想通り「受けるだけなら平気かも。お母さんに聞いてみる」と飛んで帰った。
その夜少年の母親から電話があった。
「今度の誕生日プレゼントの代わりに受験だけはさせて、目を覚まさせます」とのことだった。が、この時、私の中で何かが発火した。建前は「受験させてあきらめさせる」だが、心の奥底では違っていた。「合格してほしい」という気持ちに火がついてしまったのだ。
半年が経過した02年8月。ついに03年度入団セレクション募集が始まった。事前に応募はがきを準備し、募集初日に少年の家族に記載してもらって発送した。絶対に「1番」と確信したが、柏から届いた受験番号は「8番」。ここでも離島という距離感を感じた。
少年の父親から「息子の受験の付き添いをお願いできないか」との依頼を受けた。即、快諾。最初から一緒に行くつもりでいた。私も受験生モードである。
試験は10月。半年間のトレーニングでの成長は驚愕ものだった。テレビやビデオでみたプレーが見よう見まねで出来てしまう。恐ろしい吸収力だ。ただ者ではないオーラを日々感じていた。
出発前夜、少年の家で壮行会が開かれた。前夜にしてこの落ち着きよう、肝も据わっている。私の方が緊張気味だ。少年は「楽勝だよ。合格してすごいって言わせてやる」と息巻く。両親は「世間知らずの馬鹿者、思い知ってこい」。和やかである。弟と姉はお土産の依頼。妻は私と少年の2泊3日の旅行が心配のようだった。
(2010年2月26日付 南海タイムス)
風雲編 3
270人が17人に 第一次試験突破!
出発の日はやってきた。少年と私の家族が空港まで見送りに来た。最後に少年とお父さんが言葉を交わす。
「負けても泣くなよ」
「絶対受かってくる」
昨夜と同じような会話を交わし握手する。父の手には「ガンバレ、負けるな」という、想いがぎっしり詰まっているように見えた。
試験当日。小雨のぱらつく天気。受付時間やウオーミングアップを考えて集合時間の1時間前に会場に到着した。そして私たちは顔を見合わせて絶句した。
「なんじゃこの人は」
すでに200人以上の列である。受験者は小学5年生なので全員が保護者同伴だ。この時点でライバルはおよそ100人。普段、人の少ない島では祭りや運動会でもないとこれだけの人は見かけない。さすがの少年も驚いたようである。
受付時間が終わり、最終的に受験者は270人になった。例年よりやや多いことがまわりの会話からわかる。3年連続で受験する子もいるらしい。ある意味、大学の付属小学校に入るのと同じ感覚だ。ここに入団できれば高校や大学も推薦で入学できる確率は上がるし、うまくいけばプロ契約だ。
ざっと400人ほどが見守る中、新6年生入団試験は始まった。この日は午前が1次試験、午後が2次試験だ。
1次試験はミニゲーム。少年の得意分野のひとつである。保護者の気分で見ているが、まわりの会話も気になる。昨年は合格者がゼロだったらしい。受かっても1人か2人だ。集中して試験を見ることができない。
いよいよ少年の出番だ。希望に満ちあふれていた彼の表情を見て、私の中では、「心配」より「期待」が上回った。そして、
「行けー!」
心の中で叫んだ。
少年のレベルは突出していた。
「こいつはすごい」。
結果を待たずに1次試験合格を確信した。
結果発表。当然合格である。270人いた受験者は、なんと17人になっていた。
「あっ、そうなんだ…」
合格はしたものの、驚いた。
2次試験まで1時間足らず。他の合格者は家族で弁当を広げている。「しまった昼めしがない」。あわてて近所のラーメン屋に飛び込む。2次試験を考えれば食べないという選択もあったが、「腹が減ってはイクサはできぬ」。『軽く』のつもりだったが、少年はラーメンと餃子にサービスライスまで平らげた。
「オイ、食べ過ぎだろ」
(2010年3月5日付 南海タイムス)
風雲編 4
パスがこないなら、パスはしない
2次試験に臨む17人はみんないい面構えだ。ここに約30人のJリーグチーム所属選手が登場した。揃いの練習着がカッコイイ。同級生なのに、なんだか大きく見える。受験者に所属選手たちの視線が刺さる。まわりの見学者は50人以上。所属選手たちの父兄が来ていたためだ。合格者が出れば自分の息子のポジションが危うくなるのだ。
2次試験は所属選手に受験者が加わっての試合。あたりまえだが所属選手はうまい。連携もとれている。所属選手にとって受験者はここで芽を摘んでおくべき存在だ。すべてが厳しい条件である。
少年には全くパスが来ない。見ていて歯がゆい。なんとかボールに絡もうとするがうまくいかない。時間ばかりが過ぎてゆく。その時、少年が今までと全く違うスタイルを見せ始めた。
「パスが来ないなら、パスしない」である。
持ったボールを離さずドリブル。才能発揮のチャンスだ。3人に囲まれる。相手はさすがの連中だが、少年も強気の姿勢は崩さない。技術ではなく持ち前の身体能力で抜こうとする。失敗。だが何度もトライする。ムキになっている。
その表情は「このままでは島に帰れない」と叫んでいる。少年と所属選手では背負っているものが違う。次第に力が発揮されはじめる。もうこうなったら「止められない」。
お互い真剣勝負である。サッカーというよりは「個人競技」だ。意地とプライドがぶつかる。見応え十分の2次試験はあっという間に終了した。出来が良い、悪いという問題ではなく、「戦った実感」だけが残った。
正直な話、結果はどうでもいいと思えた。互角に渡り合えて、私は満足していた。少年も達成感に包まれているようだった。どのくらい時間が経ったのかわからないが、2人ともしばらくの間無言でいた。そして結果が発表された。
2次試験の合格者7人に少年は残った。驚きはない。「当然」である。でも、本心はお互い「よかった。安心して島に帰れる」だった。270分の7。すごい結果を残した。しかし、セレクションは終わったわけではない。
(2010年3月19日付 南海タイムス)
風雲編 5
激しくぶつかり合う意地と夢
2次試験から4カ月後の03年2月。3次試験の日はやってきた。天気はまたしても雨。
受験者は7人。最初の270人から生き残った精鋭である。試験まであと小1時間。少年を除く5人は、雨の中でものすごい勢いで保護者とアップを始めている。
2人とも焦りはなかった。
「みんなうまいな〜」
「うん。そうだね」
ぼんやり話していた。
雨の中で無理にアップするより、ギリギリまで体力を温存したほうが正しいと信じていた。
というのも、2次試験合格から4カ月間、私と少年はしっかりと準備ができた。毎日1時間は一緒にボールを蹴る時間を確保した。ボールを蹴らない日は私の自宅から八重根港まで走り込んだ。「ここにいる誰より、時間も中身も濃いトレーニングとコミニュケーションを積み上げることができた」という揺るぎない自信に包まれていた。
試験は十分なアップから始まることを少年は知っていた。開始20分前、「少しやっておくか」とお互い思い、軽くボールを蹴ることにした。
いよいよ試験開始。
Jリーグチームはフルメンバーで待ちかまえ、所属選手も交えた試合がスタートした。2次試験以上に所属選手からは「受験者は邪魔者」との雰囲気をあらわにした厳しいタックルが容赦なく飛んでくる。遠慮していたらはじき飛ばされるし、アピールできない。受験者もみんな必死で負けない当たりを繰り出し、戦った。
ところが少年は全く気負いがない。タックルは完全に見切り、スルリとかわす。勝負どころで戦う「いつもどおりのサッカー」ができていた。ルーズボールにしっかり対応し、「走り負けない」「当たり負けない」プレーを続けた。
午前中のゲームが終わり、昼の休憩。「勢いは少年にある!」私は手応えを感じていた。
昼食は最初から前回と同じラーメン屋と決めていたので、濡れた体を拭きながら一目散に店まで走った。今回もラーメンライスに餃子付きを完食。午後もがんばるぞという気持ちと裏腹に、雨の勢いは増していった。
午後のセレクションは1時間で終わるという。泣いても笑っても1時間の勝負だ。ゲーム形式の試験はヒートアップしてきた。所属選手の意地と受験者の夢がぶつかり合う。そんな極限状態の中でも少年の表情は穏やかに見える。いや、あれは笑顔だ。明らかに「幸せそう」で「楽しそう」である。見ている自分も微笑んでしまう。
セレクション終了の笛。
今回も満足と達成感の出来である。あとは幸運を祈るしかない。
結果発表は3日後。とにかく「胸を張って島に帰ろう」と少年と話して帰路についた。表面上は見せなかったが、少年の疲労は相当だった。帰りの電車・飛行機とも眠り続け、機体が島に着陸したショックでようやく目を覚ました。
(2010年3月26日付 南海タイムス)
風雲編 6
運命の背番号「8」。
新学期は目の前。小学校の転校に住居選び。やることは山のようにある。そして私自身も転勤で東京に戻ることになった。
03年4月。少年は柏市内のアパートにお母さんと越してきた。部屋はワンルーム。練習場までは徒歩10分だ。Jリーグチームの6年生メンバーは21人。全員がライバルだ。この年代最大の目標は「全日本少年サッカー大会」。Jリーグチームは優勝したこともあり、前年も全国3位。千葉県では優勝候補の一角である。
5月、千葉県予選が始まった。1、2回戦は前年優勝のため免除。3回戦が、少年の公式戦デビューになる。少年のほかに20人も優秀な選手がいるのに試合に出場できるだろうかという心配がつきまとう。
試合前日、ユニホームが配られ、先発が発表された。少年の背番号は「8」。八丈島の「8」である。とてつもない運命を感じないわけにはいかない。
初戦、少年は先発出場だった。
試合当日、少年とお母さんを迎えに行く。緊張より、むしろ期待に胸膨らむといった雰囲気。相変わらずの落ち着きだ。少年と違って私とお母さんは「緊張」していた。試合会場にはかなりの数のチームが揃っていたが、中でもJリーグチームは注目の的である。
試合開始と同時に驚いた。まだ柏に来て1カ月なのに、ものすごい成長ぶりだ。全ての面でレベルアップしており、おまけにチームの中心として機能していた。試合は大差での圧勝。「今年もJリーグチームは強いな」。周りから聞こえる声に優越感を感じた。続く4回戦も大差で勝ち準々決勝へ駒を進めた。
5月8日、準々決勝当日。前日次女が生まれたので応援には行けず、お母さんからの連絡を待ったが、夕方になっても連絡がなかったためこちらから電話を入れる。
負けた。PK戦での敗北。
サッカーではよくあることだ。一方的に攻め込みながらも得点を奪えず、PK戦で。
よくあることだが、「負けた」その一言が重かった。勝利を信じ、いや勝利しか考えていなかったためかショックがとてつもなくデカイ。少年の落胆も大きかった。全国大会に出てお父さんや姉弟を呼ぶことが恩返しと考えていたからである。勝負の厳しさ、心の油断、さまざまな勉強をさせてもらった大会だった。
この大会での活躍が認められ、夏に千葉県選抜としてイタリア、オランダ遠征に参加することができた。所属チームでも韓国遠征に参加した。
まさに風雲急を告げた少年の小学時代が終わった。
(風雲編・完結)
(2010年4月16日付 南海タイムス)
番外編
お父さん、これが僕の戦う姿です。
柏に移り住んで最初の1年。いくらお母さんが一緒とはいえ、お父さん、そして姉や弟と離れて暮らす寂しさは想像に難くない。頼りのお母さんだって仕事の関係で月に何度か島に帰らなくてはならず、そんな時、少年は一人で食事の用意や洗濯をして耐えた。小学生が誰にも見送られずに学校へ行くことのつらさ、寂しさ。自分で望み、選んだサッカーの道だから弱音は吐かなかったけれど、少年の心境を思うと、私にとっても胸が痛い時期だった。
そんな中で、最も印象深いできごとが、少年の「ゴールキーパー事件」だった。
Jリーグチームに加入して10カ月が経過したころ、島へ帰るお母さんと入れ替わりで、お父さんが初めて試合を見に来ることになった。試合会場はプロが使用する柏サッカー場。これ以上ないシチュエーションだ。
少年は燃えていた。猛烈に、燃えていた。
試合前日、少年はお父さんを柏駅の改札口まで迎えに行き、合流することになった。少年は心躍らせて駅の改札でお父さんの到着を待った。しかし、待ち合わせ時間から1時間経ってもお父さんは現れなかった。
そう。お父さんが乗るはずだった最終便が欠航したのだった。少年の携帯電話は、いつもながら電池切れで連絡がつかない。
久しぶりにお父さんと会えるうれしさのあまりに、携帯の電池切れも、島には欠航がつきものだということもまったく思いつかなかった。お父さんが来ると信じて疑わず、何時間も待った。
結局、その日、少年を迎えに来てくれたのは「お巡りさん」だった。少年を心配したお父さんが、島から柏警察署に連絡して事情を話し、駅で待つ少年を捜してくれるようお願いしたのだった。
お父さんが来られないことを知った少年はショックに打ちひしがれ、誰もいない家に帰った。
どうしても少年の試合を見なくてはならない。翌日、お父さんは朝一便の飛行機に乗り、少年の試合に駆けつけた。
前フリだけでも、これだけドラマがあった大事な大事な試合。その日、少年が監督から告げられたのは、「ゴールキーパー」のポジションだった。
GKのユニフォームに着替えながら号泣する少年の姿は、痛々しかった。あんなに泣きじゃくる少年は初めて見た。お父さんも少年の晴れ姿を見て、一緒に涙した。
少年の悔しさは痛いほどわかった。お父さんへの最高の恩返しは「試合で活躍する姿を見せること」と心に決めていた。初めて見に来てくれたお父さんに、自分の成長した姿、戦えている姿を見せたい。そんな思いの少年に、監督の指示はあまりに冷酷なものだった。
本当に思い出深いできごとだ。
(番外編・完結)
(2010年4月23日付 南海タイムス)
立志編 1
「自分を生かせるのはミッドフィルダー!」
柏市の中学校に入学。Jリーグジュニアユースのメンバーは30人だが、セレクションなどで半分が入れ替わった。少年は主力としてレギュラーを確保している。
この年代の最大の目標は、「ナイキプレミアカップ」。スポーツメーカーのナイキ社が主催する国際大会だ。各国1チームが出場し、「世界一」を決める。 前年は少年の所属するJリーグジュニアユースチームが日本代表として出場。「世界7位」の結果を残した。
千葉県の決勝。相手は同じ千葉県のJリーグチーム。お互い優秀な選手を揃え、指導者もトップレベルだ。
無念のPK負け。前年に続きPKに泣いた。
しかし、少年の実力はチームという枠を超えて認められるようになった。この年からナショナルトレーニングセンター(通称・ナショトレ)のメンバーに選ばれた。日本サッカー協会が行うトップレベルの講習会で、将来の日本代表候補に期待される選手を集めて、強化・指導するプログラムだ。
中学2年。転機が訪れた。それまでのMF(ミッドフィルダー)からDF(ディフェンダー)へのコンバートである。指導者の意図は守備の意識を植え付けさせるためだと思われたが、本人は不満だった。
しかし、文句ばかり言ってはいられない。持ち前の順応性の良さを生かしてディフェンス力を身につけていく。元々冷静な少年は守備に入ってもあわてることなく、安定したDFに育っていった。
幸か不幸か、この成長が認められ、JFAのエリートプログラムに選出された。全国から将来性のある優秀な選手を集め、「サッカーのエリート教育を実施する」プログラムである。 選出は名誉なことだが、少年にとっては「DFでの選出」が納得できなかった。
少年の気持ちはプレーにも表れるようになり、その不満が爆発した。
指導者に直訴したのである。
「DFはやりたくない。自分を生かせるMFをやらせてください」
強い気持ちは押さえない。とにかく行動。私は少年のこの超積極性をそれ以降、「病気」と呼ぶようになる。
少年の申し出は指導者の気に触るものだった。
プロの指導者が少年の力量を見極めコンバートし、その結果、エリートプログラムに選出されたのだから、本来であれば感謝されるべきである。それをこの地位を捨てる覚悟での「申し出」は理解できるものではなかっただろう。困った「病気」である。
案の定、それから試合に使われなくなり、ベンチを温める日が続いた。当然、この後のエリートプログラムにも選出されなかった。
自分で決めた行動だから落ち込んでいるわけにはいかない。少年はMFでの自分に磨きをかけた。そして、チャンスはやってきた!
所属チーム主催の小さな大会にMFとして出場し、今までのウップンを晴らす活躍を見せた。優勝、そして大会MVP。
MFの位置を自分の力で揺るぎないものとした。あっぱれ。
この大会から不動のMFとして少年の地位は確立され、その後もすばらしい活躍を続けた。今度はMFでナショナルトレーニングセンターのメンバーに選出されることになった。いよいよU-15日本代表の選考が始まった。新しいステージへの挑戦だ。
(2010年4月30日付 南海タイムス)
立志編 2
「ブレーメンに行きたい」
05年4月。3年生になった。所属チームによるフランスへの10日間の海外遠征が行われた。遠征中に「日本代表選出」の連絡が入った。 背番号は「10番」。同世代の全国のトップ選手が集まる中、少年への期待の大きさがうかがわれる。
フランス遠征から帰国して2日後、イタリアにとんぼ返り。日本代表としてフランコ・ガーリーニ国際大会に出場した。同大会はイタリアのクラブ17チームを中心に、日本など3カ国の代表チームなど32チームが出場した。
予選2試合目のアメリカ・ピッツバーグ戦でゴールも決め、チームは快勝した。予選リーグは3勝で1位通過。決勝トーナメントもオランダ、イタリア、オーストラリアのクラブチームを破って勝ち上がり、決勝では名門クラブのユベントスU-15を2対0で破り、見事に優勝した。
まさに絶頂期である。とどまることを知らない成長ぶりだった。
そして帰国。5月初めには所属チームが各国クラブユース代表が出場するU-15ワールドカップ出場のためにドイツ・ブレーメンへ遠征した。ここでも1週間のドイツ滞在となった。
なんと1カ月間にフランス、イタリア、ドイツとヨーロッパ3カ国へ連続しての遠征だ。度重なる飛行機による移動は、乗り継ぎを入れて片道20時間近くかかることさえあった。慣れない機内食、そして国際試合という極度の緊張が続いた。このとき、少年は自分の体内に起きている見えない変化の兆候にまだ気がついていなかった。
少年が帰国後、あの「病気」は再発した。所属チームの指導者に突然「オレ、ブレーメンに行きたい」と直訴したのである。思ったらすぐ行動する例のパターンだ。
ドイツ遠征中、ブレーメンのクラブのサッカーへ取り組む姿勢や、その素晴らしい環境に少年は心を奪われた。「ここでやりたい」と強く願った。現地で元ドイツ代表のスポーツジャーナリストから少年のプレーが高く評価され、アドバイスをもらったこともあり、少年自身の手応えとなっていた。
チームもこの直訴を前向きに受け止めてくれ、ブレーメンに連絡を取ってくれた。少年はもうその気で、ドイツ行きの準備を始めた。が、現地の日本人学校が廃校になることがわかり、ブレーメン側から「受け入れが難しい」という状況が伝えられた。
これで少年の「ドイツサッカー留学」の夢はひとまず消えた。
(2010年5月14日付 南海タイムス)
立志編 3
エコノミークラス症候群
中学3年の時には国内でもさまざまな大会があった。 最初のビッグタイトルは、「日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会」。 所属チームの少年の世代はタイトルに恵まれず未だ無冠である。
この大会に出場するには関東代表8枠に入らなくてはならない。関東にはJリーグクラブが14もあり、その他アマチュアの強豪クラブもひしめく。「全国大会よりも関東予選がはるかに厳しい」と言われている。
少年のチームの下馬評は「下の下」。過去の戦績を見れば当然である。 しかし、関係者の下馬評は覆される。春先から始まった関東予選で、少年は日本代表時の好調を維持した。チームを引っ張る活躍で関東優勝を成し遂げたのだ。
文句なしのMVP。チームの評判は急上昇し、少年の名前も多くの関係者に知れ渡った。
8月。「日本クラブユースサッカー選手権全国大会」が始まった。関東優勝の少年のチームは全国からマークされたが、少年はプレッシャーをものともせず大車輪の活躍をみせ、予選リーグで4得点。1位通過の原動力となった。
決勝トーナメント進出は16チーム。1回戦は5対1、準々決勝も6対1と対戦相手を圧倒してベスト4に。両試合とも自ら2得点を上げた。いよいよタイトルが見えてきた。
ここで休みが1日入った。この休みが少年にとって悔やまれることになった。それまで全力で「走り続けてきた」少年にとって、真夏の連戦は厳しかったが、緊張感が切れない日程が救いだったのだ。
1日休んでの準決勝。
少年の身体は重かった。動けなかった。全くいいところがなく、ミスばかりが目立つ。 そして、無念の途中交代。ベンチで頭を抱え、悔し涙をみせる少年。珍しい姿だった。
1対3での敗戦。3位でこの大会は終わった。
残念だが、4、5月の欧州3カ国の連続遠征で少年の肉体は限界を超えていた。6月に体調不良を訴え、練習中に倒れたこともあった。
精密検査の結果は、「軽度ながらエコノミークラス症候群の疑いがある」との診断だった。元日本代表FWの高原直泰選手も発症した病気で、長時間の航空機による移動などが原因となる。
「疲れがとれない」「走れない」。そんな日々が続いた。指導者の評価も落ちていく。 進学を控えた中学3年の秋。コンディションは戻らなかった。
(2010年5月21日付 南海タイムス)
立志編 4
ユース昇格見送り。そして新潟へ
中学3年の冬。進路が決まる時期となった。
ユース昇格者発表。 柏のクラブが下したのは 「ユース昇格を見送る」との判断だった。
驚いた。確かに今は調子を落としているが、この状態だけで評価されたのだろうか?「いままでの実績は関係ないのか…」。 私自身取り乱すくらい動揺した。しかし、少年は淡々としていた。むしろ新天地への希望を膨らませていた。
少年がユースに昇格しない話は全国に知れわたり、Jクラブはじめ、名門高校など、多方面から声がかかった。
少年はJクラブのみの希望だったため、2チームにしぼってセレクションを受けたが、結果は不合格。「コンディションが戻らない」「技術はあるが走れない、動けない」と評価された。
年明け。いよいよ行き場がなくなった時に、2つのJリーグチームから声をかけてもらった。少年の希望で1チームに絞った。新潟である。
この頃から徐々にコンディションが戻り、普通にトレーニングをこなせるようになってきた。前のように走れるようになった。新潟のセレクションでは、即日合格という結果をいただけた。
今考えてみると、この体調不良も所属チームのユース昇格見送りも全て「運命」だったのかもしれない。
こうして、少年とお母さんとの柏での生活は幕を閉じた。 まさに激動の4年間だった。
新潟に旅立つ前日、少年は我が家にあいさつにきてくれ、久しぶりに夕食を共にした。そこでよみがえったのは、八丈島も含め6年間の思い出だった。なぜか少年の顔が見れない。
心配な気持ち、寂しい気持ち、様々な思いが駆けめぐった。
大した言葉もかけてやれない。伝えたいことは手紙にして別れ際に渡した。そのときの少年の手の感覚が今でも忘れられない。
(2010年5月28日付 南海タイムス)
立志編 5
イザ! 新天地、新潟へ。
クラブの移籍と高校生活。少年とお母さんは上越新幹線で新天地新潟を目指していた。希望と不安を抱えての引っ越しである。
新潟では寮生活。親離れでもあるし、子離れでもある。寮の身支度を調え、関係者へのあいさつを済ませ、お母さんは一人東京へ向かった。その新幹線の中での心境は察することができた。窓に映る涙は少年への期待より、心配の表れだろう。
新天地移籍後2日目に少年から電話が入った。
「また病気か?」
と心配する自分とは裏腹に少年の声は踊っていた。
「練習厳し過ぎてヤバイです」
厳しいのがうれしいらしい。懲りないヤツだ。
新潟は歴史が浅い。実績は皆無の状態だ。しかし、そんなことは少年には関係ない。体調面も戻り、今までの不調がウソのように動ける。 サッカーができる楽しさ。この当たり前から少し遠ざかっていた。何でもない練習が幸せそのものだった。 身体さえ動けば、怖いモノはない。それは少年の過去の実績を見れば疑いはない。
技術は日本有数。その実力を証明するのに時間はかからなかった。
すぐさまトップの試合に出場する機会が与えられる。名前は知らなくともそのプレーを目にすれば誰もが覚えてしまう。「あいつかあ〜」。目の肥えた関係者の間にそんな声が試合ごとにあふれる。
1年からトップチームで揉まれ、結果を出し続けて秋田国体少年男子にも選出された。
国体1回戦の対戦相手は千葉県選抜。運命を感じずにはいられない。 チーム力は天と地ほどの差がある。案の定、一方的に攻め込まれる。あっという間に5対0。いいところもなく、一人ではどうしようもない。
残り時間もあとわずか…。少年の足もとにボールが来た。いつもであれば、ゲームを組み立てゴールをねらう筋書き。しかし、このときは違った。少年はゴールしか見ていない。強引なドリブル。そして、シュート。ボールは千葉県選抜のゴールに吸い込まれていた。
5対1。完敗だが、一矢報いることはできた。悔しさをチカラにできた瞬間だった。
(2010年6月11日付 南海タイムス)
立志編 6
17歳3カ月でJリーグ2種登録
新潟のユースが最強時代を迎えた。少年が高校2年となったこの時代は、一つ上の世代に優秀な先輩が数多く在籍していた。
北信越ナンバー1の下馬評は正しかった。プリンスリーグを無敗で制覇した。初優勝である。
そして、この実力者揃いの中で少年は飛躍的に伸びた。
08年8月22日。少年は17歳3カ月で「Jリーグ登録」(2種登録)を果たした。高校生などのアマチュアでもJリーグの試合に出場できる資格で、少年が最もほしかった資格でもある。
2種登録が決まった日、少年が電話をくれた。電話に出ていつものやりとりをした。
「こんにちは」
「今日はどうした?」
「報告があります」
「いい話? それとも悪い話?」
「いい話です」
ここでピンときた。
「2種登録か?」
「そうです。なんで知っているんですか?」
「知っているはずないだろう。カンだよ」
思い出深いやりとりを今も鮮明に覚えている。
プロ昇格まであと1年。勝負の1年が始まる時であった。
年が明け1月。正月気分が抜けきらないうちにビッグニュースが飛び込んできた。
プロトップチームの3週間に及ぶ高知1次キャンプへの帯同が決まった。驚きである。過去、2次キャンプから練習要員として招集されることはあったが、1次キャンプからの帯同は初めてだ。クラブの少年への期待の表れだ。
(2010年6月18日付 南海タイムス)
立志編 7
戦っている顔。期待は確信へ
プロ選手にとってキャンプはスタートライン。ぴりぴりしたムードが漂う。厳しいことはもちろん、誰も心配してくれない。脱落者は敗者扱いだ。
情報はなかったが、一度だけ電話で話すことができた。「とても楽しい」という感想。少年には辛くない。いつものように厳しいのが楽しい。
この流れに乗って、少年は静岡2次キャンプにも帯同した。静岡となれば見学に行くしかない。有給休暇を取って車を飛ばした。
約300キロ、3時間半のドライブ。その道中、心境はいつもと同じ「緊張と心配」だった。心配だから緊張するのか、全く別の感情の同居なのか自分でもわからない。
練習グラウンドが近づくにつれ、「緊張と心配」は頂点に達した。「このまま見学しないで帰ろうか」とまで思ったが、少年にも行くことは伝えてあり、帰るわけにはいかない。「しっかりしろ、いい大人なんだから」、カツを入れた。
練習グラウンドに到着。まだ誰もいない。隣接して宿舎がある。
電話で到着を伝えた。
「今からそっちにいきますよ」
間もなく練習が始まるというのに、少年はすぐにやってきた。その顔を見た瞬間に「緊張と心配」は「希望と安心」に変わった。プロで揉まれている顔だ。戦っている顔、男の顔である。
練習が始まった。期待が膨らむ。そしてその期待は裏切られることはなかった。
「やれている。通用している」
私は確信した。
「少年はプロになれる」
キャンプ終了後、新潟に戻ってからも少年はユースには合流せず、練習はプロと一緒に行った。
そして、2009年Jリーグ開幕。
少年はアルビレックス新潟の「背番号30」で開幕から登録されていた。
(2010年6月25日付 南海タイムス)
立志編 8
代表復帰、そしてプロ契約
いよいよ最終学年。少年の集大成の年である。スタートからトップチームに帯同し、ユースの練習には参加しなくなった。クラブは本気で少年を育てるつもりだ。
夏。日本クラブユース選手権全国大会が始まった。少年はユースの練習にも出ておらず、地区予選にも出場しなかった。このままユースには出場しないのかと思われた全国大会に、クラブは少年を出場させた。
半年ぶりのユースの試合。「いったいどんなプレーをするのだろう」。少年はそこで半年間プロで揉まれたチカラを披露した。少年のプレーは次元が違った。もはや高校生レベルを遙かに超えていた。想像以上に成長していたのである。
新潟は少年の活躍で全国大会グループリーグを初めて突破した。
ベスト8が揃った決勝トーナメント1回戦。この試合で少年は今大会最高のプレーを披露した。相手に圧倒的に支配される中、的確に判断・プレーし、ピンチの芽をことごとく摘んでいく。
そして試合終了。2対1。接戦をモノにした。
全国ベスト4。快挙だ。
続いての準決勝で惜敗し、結果は3位。少年の夏は終わった。「全国レベルにまではあと10年はかかる」とされていたチームの歴史を作った。
この大会の活躍が認められ、思わぬ朗報は飛び込んできた。U-18日本代表選出。3年ぶりの日本代表復帰だ。
この選出から私の心の中で、揺るぎない確信が芽生えた。そして、その瞬間は突如やってきた。
残暑厳しい日曜日の昼過ぎ、突然少年からの電話が鳴った。
いつもどおりの会話である。
「どうした? いい話か、それとも…」
話している途中で、普通ではない雰囲気に気づいた。
「今日クラブとの面接があって、プロになれることが決まりました」
「大学はいかないの?」
あまりにも突然で、つまらない言葉しか出てこない。
「プロに挑戦したいです」
心が熱くなり、全身が柔らかいものに包まれるような感覚。
「わかった。おめでとう。7年間ご苦労様」
そんな会話だった。
電話を切った後、さまざまな想いと記憶の断片が一度に襲ってきた。そしてひとり小さく、力一杯のガッツポーズ。
ありがとう。よくがんばった。本当によく耐えた。君はこれから大きな自信と共に生きていける。家族の愛に守ってもらえる。
私はしばらくはこの余韻に浸りたかった。
(完)
ご愛読ありがとうございました。
(2010年7月2日付 南海タイムス)
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