写真資料室

南海タイムスで掲載された八丈島の特集記事です。
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 神社・旧跡の改め 八丈島は明治4年

 

2015年10月23日発行



 

 御一新と呼ばれた明治維新。八丈島では何が起きていたのか。その内容は、1870(明治3)年に、政府が地方に提出させた「神社および寺院明細帳」で確認することができる。八丈島には翌明治4年、伊豆諸島を管轄していた韮山県(現静岡県)から萩原正平が来島し、各村の神社、旧跡を巡回して一つひとつ改めたとの記録が残る。島嶼コミュニティ学会主催の「第5回八丈島フォーラム」(8月22日、七島信用組合)では、土屋久氏(共立女子大学、順天堂大学 兼任講師)が、萩原が来島したときに韮山県へ差し出された『三嶌神社明細書上 扣』を紹介し、『明治初年の宗教政策』について報告した。『八丈実記』の記載内容は、このとき改められた神社・旧跡の内容と同じで、『八丈実記』がなぜ江戸以前の古書と違いが多いか、という謎の解明につながる貴重な資料だ。維新以後、日本は、戦争に明け暮れ、やがて破局的な敗戦を迎えたが、今回は、そこに至る近代史の始まりの時、八丈で起きていたことに目を向けてみたい。

 

頭部転がり、一体不明 優婆夷宝明神社の狛犬

 神仏分離令は、各地で地方官らによる過激な廃仏毀釈運動を誘発し、布告から4年後の明治4年にピークを迎えた。内容は、寺堂、仏像、経巻などの破棄・焼却、僧侶に対する還俗の強要が多かった(村田安穂著、『神仏分離の地方的展開』)。
 八丈島での伝統の再編を知る手がかりとなる『三嶌神社明細書上』は、明治4年5月に八丈島5村と小島2村、同6月に青ヶ島を調査した神社明細を韮山県の役所に差し出したものの控え(高橋家所蔵)で、三嶌は、八丈島、小島、青ヶ島を指す。
 「書上にある神社明細は『八丈実記』の内容と一致する。これが明治以後の一般の理解になった」。島嶼コミュニティ学会のフォーラムで土屋氏はこう説明した。書上は多くが富蔵の筆跡で、平川親義(明治2年流罪、同6年赦免)のほか、差出人に、水原潔(宗福寺住職の還俗名)や村役人の名もある。

 土屋氏が注目したのはこのとき八丈島にも神葬祭へ転換する動きがあったことだ。また、「民間信仰の禁止に伴い、安置されていた文化財が破壊された例があるかどうか、問題提起の一歩としたい」と語った。
 その中で、伝聞情報として紹介されたのが、優波夷宝明神社の境内に頭部と胴体が折られて転がっていた陶製狛犬(八丈町文化財、中世末頃に製作)=写真=だ。1974年に口を結んだ「吽形」の方が発見されたが、その前足と、もう一対の狛犬(口を開いた「阿形」)は行方不明だ。他に、樫立・稲荷神社の狐像は1対に首がなく、馬路には頭部のない麿崖仏もあった。

 


























頭部と胴体が接着された中世の陶製狛犬。
歴史民俗資料館に展示中。専門家は「相当珍しいもの」という



御蔵島で石仏の首折る  萩原正平八丈でも一々改め

 萩原は、明治4年に官国弊社が制定された時、伊豆国の三嶋大社の少宮司となり、古来の大山祇神から事代主神へ祭神の変更を教部省に申請。変更は同6年に許可され、伊豆諸島の三嶋明神も事代主神に変わった。
 韮山県の官吏として伊豆諸島を巡回したのは明治4年。『御蔵島誌』には「神道国教化政策の実践者として知られ、御蔵島で徹底した廃仏毀釈を実行させた」と記録されている。また、石仏の首を折り、墓石の仏の頭部も破壊したため、島民はその後続いた荒天を「萩原シケ」と言って悔やんだ、という語り伝えが残っている(御蔵島の栗原敬久さんの話)。

御蔵島で語り継がれた「萩原シケ」

 萩原は江戸時代の『南方海島志』(秋山冨南著)の増補改訂版『豆州志稿・伊豆七島志』を著したが、絹を織る記述で「男尊女卑の風あり」と書いている。しかし、原本には「女子を重んずる」とある。萩原の本は丹那婆伝説を正しいとする説の根拠になっている。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

萩原正平の写真(御蔵島・栗本一郎さん所蔵)


実記のなぜ…の解明に


 萩原が八丈島で神社と旧跡を巡見したのは明治4年5月。『八丈実記』には、「一々改メ役人立合コレヲ一巻トナシ上表ス」と記されている。このとき差し出された神社明細書上に、「丹那婆(ロカコミニョコ)」が、「八丈開闢ノ惣鎮守神トモ崇メ祀リタキ祖廟ナリ」と記載され、薬師堂は「古くは陽光寺」となった。
 なぜ『八丈実記』に書写された宗福寺所蔵の八丈島最古の記録『八丈年代記』の原本が行方知れずなのか。なぜ富蔵は江戸の流行本『椿説弓張月』を、宗福寺住職のねつ造話による、としたのか(民俗学者の研究で、ねつ造話を伝えたとする流人・谷秀弘の着島は、『椿説弓張月』脱稿後とわかり、『実記』の矛盾が判明)。
 これまでは、こうした疑問も、謎のまま放置されていた。三根では、伝統芸能伝承者の故奥山熊雄さんら古老たちが、なぜ富蔵は島の古書を三度の火事で焼いたのか、と不思議がっていた。
 民俗学者の大間知篤三氏が昭和初期に、大賀郷釈迦堂付近で丹那婆の墓について聞き取りをしたところ、墓の存在を知る住民はいなかった。
 『八丈実記』が原典としている『綜嶼噺話』には大津波で生き残った妊婦は「女子を産んだ」とあり、女護ヶ島伝説になっている。過去に『八丈実記』が引用されてきたのは当然のことだが、原典が確認された現在、始祖伝説を紹介する時は引用文献にある内容を併記するのが当然のはずだ。
 今年5月の歴史民俗資料館での企画展示「八丈島の神社・お寺の昔今」は、『八丈実記』を主に参照したもので、江戸以前の古書とは矛盾する内容だった。原典との違いを明記しない紹介は、後世に禍根を残すことにならないだろうか。




古雅な神事芸能が消滅

 日本では、神に本地仏(本来の姿)の仏尊名を定めることは中世から一般化していた。神と仏は同体であるとする「本地垂述」の思想にもとづいていた。そうした本地仏は、維新政府の宗教政策(神仏分離令)で排除の対象となった。伊豆諸島の場合、総鎮守「三嶋明神」の本地仏は「薬師如来」で、八丈島では薬師堂に.安置されていた。
 薬師堂では、江戸時代まで、平安初期ごろからの宮中の年中行事『追儺(おにやらい=節分の儀式)』が行われ、祭式は十二式あり、「天帝十八番の例」と伝えられていた(高橋與市著『園翁交語』)。
 『東京都民俗芸能誌』をまとめた民俗芸能史研究の第一人者・故本田安次氏は、「延喜20年に勅定され、宮中に伝わる神事芸能『東遊』は2番までしかないが、島には5番までの、より古い形式の歌がある」と、伊豆諸島の民俗芸能の豊かさを指摘した(84年12月20日付け『朝日新聞』より)。
 『東遊』は「伊豆諸島創造の神・三嶋明神とその后、子神に何かを祈願するときに用いられた神楽で、社人、卜部、巫女と共に祭事や亀卜を行った」(伊豆諸島の宗教音楽に詳しい野口啓吉氏の話)。神祭で四方に弓を射るときの祝辞の節は「甚だ古雅」と『南方海島志』に記されている。
 維新政府は、民間信仰とそれを拝する伝統行事を「淫祠邪教」として禁止したため、こうした伝統芸能は姿を消し、八丈島では復活しなかった。
 鰐口や梵鐘等の除去が命じられたためか、薬師堂にあった中世(1390年)の鰐口は「明治7年に盗難にあった」と『八丈実記』に記されている。薬師堂の近所の人の話では、薬師如来像は焼失したという。