御一新と呼ばれた明治維新。八丈島では何が起きていたのか。その内容は、1870(明治3)年に、政府が地方に提出させた「神社および寺院明細帳」で確認することができる。八丈島には翌明治4年、伊豆諸島を管轄していた韮山県(現静岡県)から萩原正平が来島し、各村の神社、旧跡を巡回して一つひとつ改めたとの記録が残る。島嶼コミュニティ学会主催の「第5回八丈島フォーラム」(8月22日、七島信用組合)では、土屋久氏(共立女子大学、順天堂大学 兼任講師)が、萩原が来島したときに韮山県へ差し出された『三嶌神社明細書上 扣』を紹介し、『明治初年の宗教政策』について報告した。『八丈実記』の記載内容は、このとき改められた神社・旧跡の内容と同じで、『八丈実記』がなぜ江戸以前の古書と違いが多いか、という謎の解明につながる貴重な資料だ。維新以後、日本は、戦争に明け暮れ、やがて破局的な敗戦を迎えたが、今回は、そこに至る近代史の始まりの時、八丈で起きていたことに目を向けてみたい。
頭部転がり、一体不明 優婆夷宝明神社の狛犬
神仏分離令は、各地で地方官らによる過激な廃仏毀釈運動を誘発し、布告から4年後の明治4年にピークを迎えた。内容は、寺堂、仏像、経巻などの破棄・焼却、僧侶に対する還俗の強要が多かった(村田安穂著、『神仏分離の地方的展開』)。
八丈島での伝統の再編を知る手がかりとなる『三嶌神社明細書上』は、明治4年5月に八丈島5村と小島2村、同6月に青ヶ島を調査した神社明細を韮山県の役所に差し出したものの控え(高橋家所蔵)で、三嶌は、八丈島、小島、青ヶ島を指す。
「書上にある神社明細は『八丈実記』の内容と一致する。これが明治以後の一般の理解になった」。島嶼コミュニティ学会のフォーラムで土屋氏はこう説明した。書上は多くが富蔵の筆跡で、平川親義(明治2年流罪、同6年赦免)のほか、差出人に、水原潔(宗福寺住職の還俗名)や村役人の名もある。
土屋氏が注目したのはこのとき八丈島にも神葬祭へ転換する動きがあったことだ。また、「民間信仰の禁止に伴い、安置されていた文化財が破壊された例があるかどうか、問題提起の一歩としたい」と語った。
その中で、伝聞情報として紹介されたのが、優波夷宝明神社の境内に頭部と胴体が折られて転がっていた陶製狛犬(八丈町文化財、中世末頃に製作)=写真=だ。1974年に口を結んだ「吽形」の方が発見されたが、その前足と、もう一対の狛犬(口を開いた「阿形」)は行方不明だ。他に、樫立・稲荷神社の狐像は1対に首がなく、馬路には頭部のない麿崖仏もあった。
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頭部と胴体が接着された中世の陶製狛犬。
歴史民俗資料館に展示中。専門家は「相当珍しいもの」という
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御蔵島で石仏の首折る 萩原正平八丈でも一々改め
萩原は、明治4年に官国弊社が制定された時、伊豆国の三嶋大社の少宮司となり、古来の大山祇神から事代主神へ祭神の変更を教部省に申請。変更は同6年に許可され、伊豆諸島の三嶋明神も事代主神に変わった。
韮山県の官吏として伊豆諸島を巡回したのは明治4年。『御蔵島誌』には「神道国教化政策の実践者として知られ、御蔵島で徹底した廃仏毀釈を実行させた」と記録されている。また、石仏の首を折り、墓石の仏の頭部も破壊したため、島民はその後続いた荒天を「萩原シケ」と言って悔やんだ、という語り伝えが残っている(御蔵島の栗原敬久さんの話)。
御蔵島で語り継がれた「萩原シケ」
萩原は江戸時代の『南方海島志』(秋山冨南著)の増補改訂版『豆州志稿・伊豆七島志』を著したが、絹を織る記述で「男尊女卑の風あり」と書いている。しかし、原本には「女子を重んずる」とある。萩原の本は丹那婆伝説を正しいとする説の根拠になっている。
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萩原正平の写真(御蔵島・栗本一郎さん所蔵)
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実記のなぜ…の解明に
萩原が八丈島で神社と旧跡を巡見したのは明治4年5月。『八丈実記』には、「一々改メ役人立合コレヲ一巻トナシ上表ス」と記されている。このとき差し出された神社明細書上に、「丹那婆(ロカコミニョコ)」が、「八丈開闢ノ惣鎮守神トモ崇メ祀リタキ祖廟ナリ」と記載され、薬師堂は「古くは陽光寺」となった。
なぜ『八丈実記』に書写された宗福寺所蔵の八丈島最古の記録『八丈年代記』の原本が行方知れずなのか。なぜ富蔵は江戸の流行本『椿説弓張月』を、宗福寺住職のねつ造話による、としたのか(民俗学者の研究で、ねつ造話を伝えたとする流人・谷秀弘の着島は、『椿説弓張月』脱稿後とわかり、『実記』の矛盾が判明)。
これまでは、こうした疑問も、謎のまま放置されていた。三根では、伝統芸能伝承者の故奥山熊雄さんら古老たちが、なぜ富蔵は島の古書を三度の火事で焼いたのか、と不思議がっていた。
民俗学者の大間知篤三氏が昭和初期に、大賀郷釈迦堂付近で丹那婆の墓について聞き取りをしたところ、墓の存在を知る住民はいなかった。
『八丈実記』が原典としている『綜嶼噺話』には大津波で生き残った妊婦は「女子を産んだ」とあり、女護ヶ島伝説になっている。過去に『八丈実記』が引用されてきたのは当然のことだが、原典が確認された現在、始祖伝説を紹介する時は引用文献にある内容を併記するのが当然のはずだ。
今年5月の歴史民俗資料館での企画展示「八丈島の神社・お寺の昔今」は、『八丈実記』を主に参照したもので、江戸以前の古書とは矛盾する内容だった。原典との違いを明記しない紹介は、後世に禍根を残すことにならないだろうか。 |