浅沼道徳町長が5日午前6時52分、文京区の日本医科大学付属病院で肺がんのため死去した。75歳だった。7月27日の都庁での会議(東京都離島航空路協議会)、翌28日の東京都島嶼町村一部事務組合での打ち合わせが最後の公務となった。1日は町議会に出席するためいったんは登庁したが、体調が悪く、議会を欠席して上京。同日から都内の病院に入院していた。町葬は8日、保健福祉センターで、しめやかに営まれた。現職の町長が死亡した場合、町は5日以内に選管に通知し、それから50日以内に町長選が行われることになる。これに伴い、町長の職務は山下奉也副町長が代行している。
55年に町制が施行されてから、現職の町長が亡くなるのは初めて。町葬は90年の八丈島出身の元衆院議員・菊池義郎氏以来のこと。
町葬は、葬儀委員長の山下奉也副町長の告別の辞に続き、高野宏一郎・佐渡市長、梅田和久・利島村長、小沢一美・八丈町議会議長の3氏が弔辞を述べた。
山下副町長は「道徳町長は日頃より『町民あっての八丈町、職員あっての町長』とおっしゃっていた。歴史に残る一大事業となった町庁舎の完成を見届けていただけないことが無念でならない」と声をつまらせた。そして、「離島交通の利便性の向上など、枚挙にいとまがない町長の功績を糧として、平和で住みよい町づくりにつとめたい」と力を込めた。
全国離島振興協議会の会長をつとめる高野佐渡市長は「浅沼さんは01年から、全国離島市町村の唯一の運動体である全国離島振興協議会の副会長として、また、03年からは国土審議会離島振興対策分科会の委員として、離島振興の政策に強い影響を与えてきた。特に、離島球児の夢舞台である『国土交通大臣杯全国離島交流中学生野球大会』の第5回大会が来年、八丈島の新野球場で開催されるのを目前にしての逝去は残念」と、全国離島の市町村長を代表して弔辞を述べた。
東京都島嶼町村会会長の梅田利島村長は、議長時代からの功績にふれながら哀悼の意を示した。小沢議長は町議を代表して「幾多の先輩が艱難辛苦の末に築き上げた八丈町をしっかり引き継ぎ、誠実に仕事に専念してきた町長のご遺志に沿うよう、議会としても住みよい町づくりに全身全霊を傾ける」と述べた。
町葬の会場には、伊豆諸島の町村長や議長も駆けつけ、都関係では佐藤広副知事や幹部一行、三宅正彦都議、藤井一都議など、国会議員では松原仁衆院議員が参列。前衆院議員・石原宏高氏の姿もあった。
「最後まで予算気にかけ」
つづいて行われた献花では、道徳さんがよく歌っていた裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」の曲が流れる中、約500人が祭壇前に白い菊の花をたむけた。このあと八丈町を代表して土屋久公営企業管理者がお礼のあいさつを行い、道徳さんの従兄弟にあたる浅沼高三さんが遺族を代表してお礼の言葉を述べた。
高三さんが道徳さんの体調の異変に気づいたのは今年3月、自宅の階段を上がるとき、ひざをついて胸をおさえた姿を目の当たりにしたときだった。その後東京で検査を受け、入退院を繰り返したが、快方に向かう兆しはなく、酸素吸入の使用頻度が多くなっていった。そのころ「任期半ばでつらいだろうが、このへんで休まないか」と高三さんが話すと、道徳さんは軽くうなずいたという。
7月31日、体調が悪化した道徳さんに、「『もうやめようよ』と声をかけると、『やめたいんだ。ただ、今ふたつの問題がある。福島の被災者の方々の島での生活の手配と諸経費の財源が足りない。富士野球場の人工芝の改修工事に数億もかかる。そのめどがついたら考えるよ。1日に検査入院で東京へ行き、5日に帰るから』と言っていたが、5日に容体が急変し、旅立ってしまった」と、最後まで町の予算を気にかけていた町長の姿を伝えた。
浅沼道徳さんは、1935(昭和10)年12月19日、三根村生まれ。54年に明治大学附属八丈島高校、58年に明治大学農学部を卒業。翌年八丈製氷KKに入社し、63年から水産加工業を営んだ。78年から町議を6期、90年からは21代目の議長をつとめ、01年2月に6代目の町長に就任。3期目の途中だった。
「ドライブに行こう」と…
町葬の最後には遺族を代表して浅沼高三さん=写真上、長男の浅沼常徳さんがあいさつ。常徳さんは「新しいグラウンドや道路、港ができると、ドライブに行こうと言って、うれしそうに話す父の笑顔が忘れられません。島のために働かせていただき、ありがとうございました」と語り、道徳さんの島への愛情の深さを偲ばせた。
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