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第3682号  2017年(平成29年)7月28日 金曜日


●教員・医療・保育職含め最多は公務員
    トップは農業 529人 建設減少 医療福祉増加 15年国勢調査 産業別人口
      就業者数4064人
● 雨降らない7月 熱中症に注意を
● 花火で日本を明るく照らそう LIGHT UP NIPPON
● 「島っぽく」黄八丈カラーに みずほ銀行宝くじボックス

● 八農振 2年連続最優秀賞 ハマキムシ防除対策で 東京都農林水産業技術交換大会
● プレミアム付宿泊旅行商品券「しまぽ通貨」
    都予算で10月から運用 7千円で1万円分! 購入・決済も携帯で
      パスポートは継続
      閑散期の起爆剤に

● 盆踊り日程
    三根=13、14日 19時〜 三小校庭
    大賀郷=13〜15日 19時〜 大小校庭
    樫立=13〜15日 19時30分〜 樫立公民館前
    中之郷=13〜15日 19時30分〜 中之郷運動場
    末吉=14日 18時30分〜 末吉運動場

●「洞輪沢の大崩れ」から100年 17人が犠牲になった大災害
    祖父母ら亡くした沖山繁夫さん 慰霊碑探しに来島
      開善院に供養塔
    港の前の小さな石柱が
    過去の災害に学ぶ

● クロアシアホウドリ ヒナ2羽巣立つ 八丈小島が最北限の繁殖地に
    クロアシアホウドリ観察日記
● 巨大コロニー形成の一歩手前 東大名誉教授 樋口広芳氏に聞く
● 「鳥打」の名の由来は
    ノヤギ駆除して野鳥の聖域に

● 南海俳壇八月例会

● 工事平準化 一歩前進 支庁土木課 工事発注見直し
    工事、測量、設計も
● 次世代担う中核的人材の確保を
● 「今年はキンメ上向き」八丈島漁協通常総会
    田中組合長再任

● 2017.8.11 上を向いて 笑顔になろう
    LIGHT UP NIPPON
    被災地へ花火を届けよう
    歌手・大森靖子とファンも参加
    いろいろな想い乗せて
 
● わかってきた生命のはじまり  RNAはDNAより先輩 がんを治すRNA薬  
    早稲田大学先端生命医科学センターで研究開発中 菊池洋教授
      『方丈記』に生命の本質が

● 「島の豊かな自然 魅力を伝えたい」 ミス八丈島 小宮山 千聖さん
● 「アタシ 美川よ〜 」夏まつりのステージ
● ヒアリ 水際対策急げ
● 八丈で3年ぶり 愛らんどリーグ
● 石垣で離島甲子園

● たんしん 
    琉景和音Psychedelic Rave Party 8月5日、横間海岸で           
    第21回八丈島浜あそび 6日、神湊港軍艦堤防で
    第48回團伊玖磨記念八丈島サマーコンサート 6日、町ホールで
    老人ホーム夏祭り 9日、ホーム駐車場で
    八丈島納涼花火大会は11日、底土海岸で        
    アーサー・ビナードさんの講演会「知らなかった、ぼくらの戦争!」 19日、商工会研修室で
                                  憲法学習会 翌20日、同会場で

● 八丈から遠望できる富士山、南アルプスを眼下に FDA 名古屋行きフライトで
    かつて見た景色…
● 芥川賞作家・滝口悠生さん 6年ぶり 八丈へ里帰り
    受賞式に前代未聞の50人


 


「洞輪沢の大崩れ」から100年
17人が犠牲になった大災害


 汐間側から見た洞輪沢。急峻な崖がすぐ背後に迫る。中央の民家が建つ高台の部分が大崩れの土砂でできた地形と思われる。当時は物資の移入や積み出し港として、天然の良港である洞輪沢港が活用されていた

 

 1917(大正6)年12月13日午前、末吉洞輪沢の北側の名古山が突然崩壊する大災害があった。今から100年前のできごとだ。
 八丈支庁事業概要には 事故の様子について「名古山が突然崩壊し落石した。岩石及び土砂のため底地の地盤は亀裂を生じ、白煙は空中に舞いあがり、あたかも噴火のごときであった。これらの圧力により、真下の水田一面に激烈な波状を起こし、泥土、岩石を飛散し、付近の建物、人畜、その他が埋没し、惨たんたる状況を呈した。なお、人的被害が多かったのは、当日、貨物船が入港し、荷役中であったことも大きな原因である」と、記録されている。
 被害状況は▽人的被害=死者17人、負傷者10人▽住家被害=全壊5棟、半壊2棟▽非住家被害=物置3棟、船小屋4棟、倉庫3棟▽その他の被害=艀船1隻、漁船11隻、船具一式、貨物600余点、圧死牛10頭、木炭500俵──とあり、災害規模の大きさが伺える。

  『八丈島誌』は、別の視点から災害発生当時の様子を伝えている。
 「洞輪沢沖合に小笠原航路の定期船が碇泊し、乗客の上下船や荷役をしていた。当時は船便がいたって不便な時代であったから、定期船が寄港すると、村中が空っぽになるほど人々は港へ集まった。その日もまた例外ではなく、洞輪沢は大勢の人出で賑わっていた。
 ところが突然、碇泊中の汽船が、ブー、ブー、ブーと汽笛を鳴らした。人々は何事かと首をひねったとたんに、ド、ド、ドッと地鳴りがして、港の北側にある断崖があっという間に崩れ落ち、家も人も、そこいらじゅうにあるものすべてを埋めつ
くした。
 賑やかだった港は、一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化し、直ちに救助作業が行われたが、一七名の尊い命と多数の家屋を失った。
 船長が後で語ったところによると、沖合から港を眺めていたら、断崖の上方の樹々が異状に揺れ、これは何か起こる、と直感して汽笛を鳴らしたのだそうだ。
 洞輪沢の漁協裏が一帯に一段と高くなっているが、これはその時崩壊した土砂でできたものだという」

 災害現場を映像で見るかのような生々しさで伝える記録だ。



祖父ら亡くした沖山繁夫さん
慰霊碑探しに来島




開善院の供養塔の前で

 埼玉県川口市の沖山繁夫さん(74)が、この「洞輪沢の大崩れ」の慰霊碑を探しに来島したのは昨年6月10日。
 沖山さんの父・勲さん方の祖父・須田愛之助さん(当時37歳)と祖母の初枝さん(同34歳)、そして勲さんの弟で当時1歳になったばかりの功さんが洞輪沢の自宅にいて、崩壊に巻き込まれた。
 勲さん(同9歳)と姉の政子さん(同11歳)、妹の八千代さん(同7歳)は末吉小学校に登校していて、助かったという。
 繁夫さんの記憶では、祖父・愛之助さんは海軍に所属し、バルチック艦隊を監視・警戒する任務で八丈島に来たという。 1904(明治37)年から2年間、八丈島の樫立(乙千代ヶ浜)、永郷(遊平)、末吉(神子尾)の3箇所に仮設望楼を設置して監視に当たったという記録がある。愛之助さんは、任務を終えた後も島に残り、島の女性・初枝さんと知り合い所帯を持った。事故後、勲さんら残された3人の子どもは、愛之助さんのふるさとである埼玉県富士見市の親戚に預けられた。
 繁夫さんは若い頃に一度八丈へ来ているが、その時は観光目的で、洞輪沢を訪ねた記憶はないという。昨年はレンタカーを借りて洞輪沢漁港へ行き、近くの人に災害の慰霊碑のことを尋ねたが、100年前のことでもあり、確固たる手がかりはなかった。ただ、港のすぐ近くのガジュマルの木の下にブロックに囲まれた大小2本の石柱があり、近所の人から、「ここが、そうではないか」という話を聞いた。2つの石柱には、どちらにも刻まれた文字がなく、確証は得られなかったが、持参した線香を手向け、手を合わせた。
 帰りに町役場に立ち寄って問い合わせたが、後日電話で、「慰霊碑の場所は確かめていない」との回答だった。
 そして11月、沖山さんから、「島には他にも犠牲者の遺族の方がいないでしょうか。情報を持ち寄り、関係者で慰霊祭ができれば…」との連絡が南海タイムス社に寄せられた。記者が末吉の人に問い合わせたり、11月23日の末吉自治会でも情報を求めたが、住民からは遺族や慰霊碑の存在について確かな情報は出てこなかった。
 新たにわかったのが、三根開善院内の小宮山善仁さんの墓所に建つ「般若心経供養塔」の裏面に、災害の慰霊文が刻まれていること。持丸庫三郎さんの次男で、小宮山家の養嗣子となった俊次さん(当時24歳)がこの災害に巻き込まれ亡くなったことを悼むもので、「八丈島 青ヶ島 碑文墓誌集成」(葛西重雄著)に、この石碑の記載があった。
 碑は三根・孫兵衛第三の橋の袂から開善院に移されたものだが、善仁さん自身、碑の由来は詳しく知らないという。 



港の前の小さな石柱が


 洞輪沢にある石柱に手を合わせる繁夫さん。左の小さな石柱が大崩れの慰霊碑で、右の背の高い方は末吉丸の慰霊碑だという




洞輪沢では沖山宗春さん、沖山美年子さん、菊池慧(さと)さんらに話を聞いた

 今年になって、ネット検索で末吉郷友会の存在を知った繁夫さんは、相談役の沖山正俊さんに連絡をとって会っている。その時、末小の「百二十周年記念誌」を見せてもらったが、途中で転校したせいか、当時の卒業生名簿に父・勲さんらの名前はなかったという。
 今年6月16日、繁夫さんは、1年ぶりに八丈島を訪問。洞輪沢でもう一度石柱について沖山宗春さんの紹介で近所の人に話を聞くと、最も詳しいのが沖山尚昭さんと教えられた。
 尚昭さんに聞いたところ、石柱の大きな方は、1938(昭和13)年9月24日の台風で、尚昭さんの父・末喜さん所有の末吉丸が永郷沖で遭難事故にあったときの慰霊碑。その隣の小さな石柱が「洞輪沢の大崩れ」の慰霊碑だと記憶している、と話してくれた。
 繁夫さんは「洞輪沢の石柱と、開善院の慰霊碑にも供養ができ、慰霊の思いに一つの区切りがつきました」と喜んで帰途についた。

 慰霊碑の存在は、過去にあった災害のつめ跡を今に生きる私たちに伝えるもので、そこから多くの教訓を学びとらなくてはならない。
 「洞輪沢の大崩れ」から100年。東京都では現在、土砂災害のハザードマップを作成中だ。