07/8/3より連載スタート


 「八丈島・青ヶ島の宗教文化」
        和光大学教授・山本ひろ子氏が執筆

 古くから人々は神や精霊の声を聞き、儀礼や舞、祭文を生み出し、文化を形成してきました。八丈島と深い関わりのある青ヶ島の神事にいま、研究者から熱い視線が注がれています。その宗教文化を探るシリーズを、8月3日からスタートします。『東京の夏 音楽祭』(アリオン音楽財団主催)の「物部村のいざなぎ流祭儀」公演(03年)に続き、「青ヶ島の神事と芸能」公演(07年)でも、監修と司会を担当された和光大学表現学部教授・山本ひろ子氏に執筆していただきます。   山本氏の専門は日本思想史と宗教文化論。著書に『変成譜』(93年、春秋社)・『大荒神頌』(93年、岩波書店)・『異神』(98年、平凡社。03年にちくま学芸文庫に所収)・岩波新書『中世神話』(98年)、編著書に別冊太陽『祭礼』(06年、平凡社)などがあります。



1 青ヶ島の儀礼、海を渡る


(写真提供=アリオン音楽財団)

「島へ‐海を渡る音」を一大テーマに、〈東京の夏〉音楽祭2007(アリオン音楽財団主催)が一カ月余りにわたって開催された。ブードゥーあり、小笠原あり、アイスランドあり……。目白押しのプログラムの中でもっとも注目されたのが「青ヶ島の神事と芸能」(7月15・16日、草月ホール)といえよう。
 それまで非公開だった島の神祭りが「海を渡った」こと自体が、千載一遇の「僥倖」だったし、それと符合するかのように天が応(いら)えの声を発し、15日は暴風雨の中での開演となった。すべてが「尋常」の埒外で起きているのも、絶海の孤島・青ヶ島に似つかわしい気がしてくる。
 知られざる島=青ヶ島。その存在と歴史を、柳田國男の「青ヶ島還住記」(『島の人生』)によって初めて知った人が多いのではなかろうか。度重なる大噴火に見舞われ、50年に及ぶ辛酸の月日を費やして島へ「還住」を果たした「悲壮なる再興史」が、柳田独特の語り口で綴られている。
 しかし「火の島」ではなく、「儀礼と祭文の島」として青ヶ島が脚光を浴びるようになるのは昭和40年代で、芸能史の大家・本田安次氏らの手で祭文の採集・翻刻が行われてからのことだ。八丈島・小島・青ヶ島の、いわゆる八丈系祭文の存在は私を驚かせ、少しかじってはみたが、それ以上に踏み込めないでいたのは、それらの祭文が神祭りの中でどのように誦(よ)まれたのか、つまり儀礼の「現場」が漠としてつかめなかったからだ。
 公演に先立つ5月、金毘羅神社の例祭で初めてそのあらましを見知ったのだが、本番の舞台ではさらなる質と力が示され、かつ演出と約束ごとを凌駕・逸脱するトランスとパフォーマンスが実現、満座を魅了したことは瞠目に値する。
 「還住」を昔は「起こし返し」と言った。2007年は、青ヶ島の新たなる「起こし返し」の年となるように思う。青ヶ島の儀礼から放たれたいくつもの矢。それらの光
芒を捕捉し、言葉と思考の領野につがえていくことができるかが、今我々に問われている。
               

2 御神火の神と対面        



 流人島・火山の島といえば、薩摩潟の鬼界が島が連想されようか。平家打倒の謀議に連座のかどで、鬼界が島へ流された丹波少将成経と平康頼・俊寛僧都の辿った運命は、鬼界が島説話として人口に膾炙(かいしゃ)した。読み本系の平家物語は、島人から「岩殿」の神=えびす三郎をねんごろに祀れば噴火が鎮まると聞いた康頼と成経が、「岩殿」を熊野本宮に見立てて絶海の孤島で熊野詣を挙行し、帰洛を祈ったと伝えている。「岩殿」は、火山の神の在所としていかにも似つかわしい。  
 さて噴火を「神火」・「地火」と呼んでいた八丈島だが、意外にも「御神火の神」は、大賀郷(字川の上)の五行神社(現在では不明)の社守・菊池家が代々祀る祖神であった。
 言い伝えによれば、先祖の「ゲンクワウ」は「神火の神」と酒を酌み交し、「私の子孫が続く限り、地火の災いが及びませんように」と願ったところ、神は承諾して姿を消したという。菊池家伝来の「神火の神」像は、「ゲンクワウ」を象った木像=図=である(『八丈実記』所引「神社明細記」)。
 関連記事で補うと、慶長10年(1605)12月15日、「神火」で一夜のうちに西山(のちの八丈富士)が吹き出した。当時の島の支配人「現光」は神々に、「どうか人家にまでは及びませんように」と標識を立てて祈念したところ、そこより中は難を逃れたので、村々では「現光」を神として祀ったという。八丈島の「神火の神」は、火山の神ではなく、その活動を鎮めた「現光」なのであった。
 さてその「現光」(「ゲンクワウ」)は、年代から、菊池家(初代は菊池右馬之介)3代目の市右衛門武蔵と推定されている。御蔵(みぞう)奉行(島役人、当時は、「神主」も兼ねていた)として慶長から元和年間に活躍した人物だが、「現光」の表記は系図には見えないので、仮託・造型されたか、はたまた異名か。なお興味深いのは、この慶長10年頃、12月15日に「宮廻り」と称して、旧五ヶ村の神社を総鎮守の神主が巡見する行事が始まったことだ。
 先の事跡との結びつきは今一つ不明だが、「現光」とその偉業から透かし見えるのは、「神火の神」と交渉する験力を備え、島内に宗教的威力を及ぼし、神と崇められた人物の貌である。
               


3『島々縁起』の世界 1
       火山列島の神話へ
        

 神と交渉して山焼きの被害を最小限に食い止めた功労で、御神火の神と崇められた人物(「現光」)もいれば、合戦のため墓の上に築城したかどで、御神火の神の怒りをかった人物もいる。神奈川城主・奥山宗鱗の家来で八丈島の代官となった奥山八郎五郎(のち式部と改名)がその人で、大永2年(1522)の噴火関連記事は、「明神おとがめ有りて、神火出る由、島の田地多く損失す」(『八丈実記』所引「八丈島年代記」)と伝えている。
 火の島にふさわしい伝承の数々だが、ここで八丈島からいったん離れて、火山列島というパースペクティヴに立ってみよう――。伊豆諸島のなりたちを語る、独自の神話が存在するとしたら、それは火山の活動と無縁のものではあるまい。そして事実、壮大なスケールの島造立神話と神々の誕生の物語が生まれていた。題して『島々縁起』(別名は『三宅記』)。長大でドラマティックな物語は次のように始まる。
 天竺の王に八人の后があった。王最愛の光生徳女は薬師仏の申し子として王子を授かるが、王子が7歳の時に死んだ。美しく成長した王子に、父王の後添えが横恋慕し、その一件で父王の逆鱗にふれた王子は追放されてしまう。居場所を求め唐から高麗を経て、考安天皇の御代に日本に渡った王子は、富士山頂で神に会い、これまでのいきさつを話すと、神は答えた。「日本は小さい国なので、譲るだけの土地はないが、海を差し上げよう。地を焼き出して住むように。ただし親の勘当を解いてからのこと」。
 いったん故国に戻り父王と和解した王子は、船でふたたび日本を目指し、博多に到着する。宿を乞われた貧しい老夫婦は、王子が只人ではないと感じ、接待した。
 翌朝翁は、霊夢の告げとして王子に語る。「あなたさまは天竺の王のご嫡男。三島大明神となられる方です。東海道は伊豆国の大海の中に、地を焼き出してお住みなさいませ。私の息子の若宮は普賢菩薩、剣の御子は不動明王、娘の見る目は弁才天の化身です。彼らをお供にして行かれますように」。
 そこで4人の王子一行は、海路伊豆国へ――。あらためて神から海をもらう許しを得た王子は見る目に尋ねる。「どのようにして島を焼き出すのか」と。「若宮は火の雷・水の雷を、剣の御子は山の神・高根の頭領を雇ってください。私は海龍王を雇いましょう」。
 かくして島を造立する大事業のために、天と海と山から、神たちが続々と結集したのだった。



4『島々縁起』の世界 2
      壮大な島生みの神話
        

 在所を求めて天竺から渡ってきた王子(三島大明神)に、日本の神が与えたのは、大地ではなく海だった――。
 王子の家来=見る目の要請で集まった神たちは詮議した。「龍神が海の底から大石を拾い上げ、海の一箇所に積み置く。その大石を雷神が焼くというやり方はどうだろうか」。
 こうして「七日七夜に十の島を焼き給ふ」島生みの事業がなし遂げられた。
 「小さく焼いた島なので、狭いと思ったらまた焼き出し広げて住んでください」(神たち)。「ではその際は、またお願いしますね」(王子)。「承知しました」と約束し、神たちは帰っていった。
 さて王子によって、一番目の島は「はじめの島」(初島)、二番目の島は神が集まり詮議した島なので「神あつめ島」(神津島)、三番目は大きいので「大島」、四番目は潮の泡で焼き白いので「あたら島」(新島)、五番目は家が三つ並ぶ姿に似ているので「三宅島」、六番目は神の倉にするために「御倉島」(御蔵島)、七番目は遥か燠にあるので「おきの島」(八丈島)、八番目は「小島」、九番目は島の形が「王の鼻」に似ているので「おうこ島」(青ヶ島)、十番目の島は「としま」(利島)と名付けられた。王子はこの島々に通っては遊んだが、やがて三宅島に宮殿を造って住んだ……。
 ここまでが「島々造立神話」といえるパートである。島の創出が初島から始まっていることや青ヶ島を「おうこ島」と呼ぶなど興味は尽きないが、最大の注目点は、龍神が海底の石を巻き上げ、雷の神がこれを焼くという創成(と拡張)のわざといってよい。見事に描写している箇所を紹介しよう。
 「島の上に大に穴を掘り、さきのごとく龍神の海の底より大なる石どもを巻き上げて、水火の雷これを焼き給へば、石も焼かれて湯になり、地の底をむくりて汀(なぎさ)へさっと落ちければ、汀の石にも火付きて燃ゆれば、潮沸き返り、燠の波うちかけうちかけしければ、即ち岩となり、土となる。さるほどに本の島三分の二ばかり焼き出しぬ」。
 火の島に生きる人々ゆえに構想しえた、壮大な島生みの神話である。アニメーションや楽曲によって作品化してみたい。そんな思いに駆られるのは、私だけだろうか。



5『島々縁起』の世界 3
      天上界の遠謀もなく
        

 「島の上に大に穴を掘り、さきのごとく龍神の海の底より大なる石どもを巻き上げて、水火の雷これを焼き給へば、石も焼かれて湯になり、地の底をむくりて汀へさっと落ちければ、汀の石にも火付きて燃ゆれば、潮沸き返り、澳の波うちかけうちかけしければ、即ち岩となり、土となる。さるほどに本の島三分の二ばかり焼き出ぬ」(『島々縁起』)。
 沖から次々に押し寄せる波が溶岩に「打ちかけ、打ちかけ」すると、次第に固まって大地となった……。噴火のエネルギーだけではない。黒潮のうねり、波の作用も島の造成(焼き出し)に大いに寄与していたのだ。火山島ならではの卓抜なる神話ヴィジョンといってよい。 
 ここで想起されるのは、奄美諸島・沖永良部島の創成神話である。神女たちが祭りで唱える叙事詩(オモリ)の中の『島立てしんご(神語)』は、次のように始まっている。 
 石の王と金の君から生まれた子は天の庭に昇り、太陽から「島クブタ国クブタ」という聖名をもらう。国をくださいと太陽に頼むが、天の庭には「島の土台・国の土台」はないというのでニルヤカナヤに降り、その主から土をもらい、潮に乗せて運び、踏み広げて島を造った。しかし浮島だったので、太陽から釘をもらって固定した。それでも波が越えるので石垣を積み、木を植え、御嶽(ウタキ)をつくった……。
 圧倒的な量と豊かさでもって南島の古謡群が私たちの前に姿を現わしたのは、1970年代のことである。なかでも完璧なまでの創成神話というべき『島建てしんご』は、その原・伝承者がユタという事実も含めて私たちを驚かせたが、いつまでも南島神話の世界にばかり目を奪われているわけにはいかない。中世において伊豆の島々にも、断片的とはいえ――かくも独創的な島造り神話が誕生していたのだから。
 ここには記紀神話の神々も登場しないし、また天上界の遠謀も必要とされてはいない。龍神の化神の娘「見目(ミルメ)」をリーダーに、大海や火を統べる精霊たちの協働事業によって「島の焼き出し」は遂行されている。同時に、造られたのは単独の島ではなく「十の島」だったとの帰結も見逃せない。まさに「島々」の連なり、島と島をつなぐ遥かなる「海上の道」が、この神話の版図であり、視線であったということができよう。



6『島々縁起』の世界 4
      謎の女神・ミルメの連想
        

 島立て事業に参与した精霊たちのなかでもひときわ目を惹くのが、龍神の化身「見目(ミルメ)」である。 
 三宅島の神楽歌にも歌い込まれている見目は、王子(三島大明神)の家来となった3兄弟の1人だが、その活躍とリーダー性は男の兄弟(若宮と剣の御子)の追随を許さない。「あね御前は……海中に住み給へば、通力のまゐらせ候」(異本『三宅記』)ゆえか。なお『島々縁起』にゆかりの深い伊豆半島南端の白浜神社は、現在も相殿にこの三神を祀るが、見目の神格は判然としない。
 ところで視線を伊豆国から遠く離れた三河国に投げると……。意外なことに「花祭」の山里(愛知県北設楽郡)に見目の痕跡を見出すことができる。花祭とその母胎の大神楽は天龍水系の霜月神楽の一つで、昭和4年、早川孝太郎が大著『花祭』を刊行して以来、折口信夫を始め、多くの人々を魅了してきた。修験の色彩の濃い花祭・大神楽で招かれる神々は多彩だが、かつて「見目」と「切目」の対偶神は、もっとも重要な神として崇敬された。とはいえ、「切目」に熊野参詣路の一大ポイント「切目の王子」との繋がりがみてとれるのに対し、「見目」の像容はやはり謎に包まれてはいるのだが。
 奥三河・花祭の見目と伊豆の見目は、はたして同類の神だったのかどうか――。その消息は杳として窺い知れないが、三宅島・八丈島・青ヶ島の神降ろしの詞章が、花祭のそれとよく似ていることなど、儀礼・信仰の伝播によって、海の見目と山の見目の繋がりがあったのではとの類想が首をもたげてくる。一方、中世の縁起・語り物には、時折、視覚と聴覚の表象というべき使霊の「見目・嗅鼻(かぐはな)」が登場する。とまれ「見目」は、中世びとの信仰イメージが育んだ精霊とみなしうるが、記紀の神々のような由緒正しい出自を持たないせいか、近代への過程で忘れられてゆく。
 今夏、八丈島を尋ねたとき、「運良く」八丈小島に渡ることができた。わずか7.5キロ先の洋上に島の姿を捉えながらも、黒潮のうねり、泡立つ海の道が、容易には渡ることを許さない。現代において然りだから、『島々縁起』の中世において、島から島への行き来がどれほどの困難を極めたかは、想像を絶するものがある。
 しかし「十」の島造りと見目の連想は、島を渡りゆく豊かな縁起の構想力とスケールにおいて、私たちの「孤島」観念を激しく揺さぶるのだ。
                (和光大学教授)



7『島々縁起』の世界 5
      〈王〉と〈青〉を追って
        

 神々による十の島々の造立と命名で、特筆すべきは青ヶ島の名称である。「島の姿、王の鼻に似るとてわ(お)うこ島と名付けるなり」。
 「王の鼻」とは鼻高面のことで、平安時代に発祥した芸能=「王の舞」で用いられる。事実、『島々縁起』にゆかりの深い三宅島(御斎神社)では、昭和40年代頃まで「王の舞」が舞われており、伝来の鼻高面には「文明8年」の銘がある。
 『島々縁起』は文明年間の年紀をもつから(一説によれば鎌倉時代に遡る)、中世において青ヶ島は、「オウヶ島」(「ヶ」が「こ」音に転化)と呼ばれていたことが知られよう。けれども縁起成立の頃には、「オウ」の意味はすでに分からなくなっていたのだろうか。伊豆諸島屈指の芸能の島=三宅島に似つかわしく、そそりたつ形姿の青ヶ島に「王の鼻」のイメージを重ねた。中世芸能に引き寄せた異称で興味深いが、「オウ」(オフ)の原義にはほど遠い。
 江戸時代、近藤富蔵は、青ヶ島の異名として「男島(オノシマ)」「オフの島」「鬼ヶ島」「小鬼島(ヲガシマ)」「葦島」「青ヶ島」を書き留めている(『八丈実記』)。
 注目すべきはもちろん「オフ」の島だ。日本各地に「オフ」を冠した島や地名が見出せることから、「オフ」の解釈も一様でないが、私が惹かれるのは仲松弥秀の説である(「青の世界」、その他)。
 沖縄の島・御嶽・神名に付けられた「オウ」・「オフ」・「アフ」は、「青」で、葬地や死後の世界を表わす言葉という。古代沖縄の色彩観念は「赤・白・青・黒」の四つで、「青」は、黄泉国の「黄」と通じる薄明の色なのだった。(たしかに黄表紙本は「青本」と呼ばれている。)
 後生・あの世は「暗黒」ではなく、ぼーっとした「青の世」、この世と往来可能な「死者の往く安住の世界」で、やがてニライ・カナイと結びつくようになったとの考察は示唆に富む。
 仲松説に触発されて、かつての風葬の島奥武(オフ)島(久米島仲里村)を尋ね、また美濃の「青墓」、志摩の「青峯」などの地名を捜し歩いたのは谷川健一である。私が補うとすれば、島根県美保関に伝わる水葬儀礼の「青柴垣神事」だろうか。出雲神話の敗北王コトシロヌシの擬死再生を模した祭りで、神が籠って海に沈んだ屋形(殯装置)を、古代びとは「青柴垣(あおふしがき)」と表現した……。
 御蔵島と八丈島の間には、「黒瀬川」と呼ばれる7ノットの黒潮が流れており、帆船時代にはめったには渡れぬ海の難所だった。青ヶ島は、その八丈島のさらに先である。葬地だったわけではないが、「絶海の孤島」の姿形と位置に、人々は「かすかに現世と往来のできる」死者の国、「青の世界」のビジョンを描き、「青の島」の名称を与えたとは考えられないだろうか。
 ふと思うのだ。青ヶ島の存在理由は、「青の島」という名称だけで充分ではないか。「死」と「死を超えるもの」、そして「他界」が、現代人にとってなお思考の果ての地平、根源的な「場所」であるのならば。
 「絶島」青ヶ島をみはるかす――。青の世界へ向けて幻視の旅が始まる。
              (和光大学教授) 



8『島々縁起』の世界 6
      消えた「いなばえの后」
        

 十の島々を焼き出し、主となった王子=三島大明神のその後の活躍はいかに――。『島々縁起』(別名・三宅記)の続きを語る余裕はないので、八丈島にまつわる重要な箇所を紹介しておく。
 王子は、使霊=見目(ミルメ)たちが選んだ5人の后たちと5つの島で結婚した。大島では「波浮の后」、新島では「みちのくちの后」、神津島では「長浜の御前」、三宅島では「天竺いま后」(天地今后)で、それぞれに王子王女たちが生まれた…。王子の血筋が島々の開祖となる所伝で、地名起原譚にもなっている。
 問題の八丈島については、全文をあげよう。
 「澳の島に置き参らせ給ふ后をば、いなはゑとぞ申しける。其の御腹に王子五人ましましき。母隠れさせ給ひて後、嫡子も次郎も貮人は手に手を取り組みて、思ひ死しに給ふ。石となり給ふて、おとあに(弟兄)の御子とて立ち給ふ。貮人は未だ幼少にて隠れさせ給ひぬ。今は五郎の王子ばかり澳の島にはましましき」。
 母いなばえの后の死後、思い詰めて心中した長男次男は石になり(「弟兄の御子」)、下の2人の娘も幼いまま死に、阿古の郷で「阿古の御子」として祀られた(『異本三宅記』)。こうして命薄い兄弟姉妹の中で、末子「五郎の王子」だけが大明神の子として澳の島(八丈島)に棲む……。
 さてこの所伝を、『八丈実記』など多くの類書は八丈島の有力な始祖伝承とみなし、「三宅記に云く」として必ず引文するが、なぜか后の名は、「いなばえ」(「いなばね」)ではなく、「八十八重(やそやえ)姫」となっている。ここに名称改竄の作為をよみとるのは私だけだろうか。
 延喜式に記載された伊豆諸島の古社は、出雲ゆかりの神々と言われている。それも遠因だろうが、ある時期(おそらくは江戸期)に、主人公の王子を出雲の事代主命とし、「八十八重姫」という神話風な名前を案出して「いなばえ」に置き換えた。この潤色・付会によって二神から誕生した八丈島の始祖は、出雲系の神という「れっきとした」出自を手に入れることになる。
 かかる事代主・八十八重姫説は流布し定着をみて、八丈島屈指の女神「優婆夷大明神」を「八十八重姫」とする解釈や、国譲りに敗れた事代主命は流れて伊豆の島にやってきたとの所伝がまかり通るようになる。
 だが中世に成立した『島々縁起』のどこにも、出雲神話の要素は見当たらない。「いなばえ」は他の后たちと同様に、伊豆諸島の縁起伝承が造型した、オリジナルで中世的な名称なのだ。三宅島に伝わる神楽の神歌に、見目や后たちの名前が歌い込まれている事実もそれを傍証しよう。また「沖の島(八丈島)の次第は、五郎の大明神を始め奉る」の詞章も、縁起と神歌の強い類縁性を示している。
 ちなみに『島々縁起』には、王子が青ヶ島で后を娶ったとの話はないが、三宅島神楽歌に「青ヶ島の次第は、きちぞう・駒方・まだら山王」と見える。これらの名称も、いなばえの后や五郎の王子と同様に、いつしか忘却されていった中世的な神格に違いあるまい。
 社殿を持たず、神社や神話の秩序から逸脱している霊格たちは、総じて消えてゆく運命にあった。しかし今に残る縁起と祭文・神歌に、像容こそ窺い知れないが――その痕跡(神名)を見出すことができる。名称だけとなった彼らに姿かたちを与え、また担い手たちを発見できるかどうか。縁起はもちろんのこと、神楽や神歌の解読がその鍵を握っている。
               (和光大学教授)



9 青ヶ島のカメ どこから?
            

 ここ3年、首里にある沖縄県立芸術大学大学院で集中講義をしている。「青ヶ島」をテーマとした今年度(9月)の受講者は、陶磁器専修の面々。楽しい3日間で、後日送られてきた期末レポートもなかなかの出来映えだった。その中で、青ヶ島の焼酎ガメの伝来を考察した木村容二郎君のレポートを要約・紹介しよう。          (和光大学教授)
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 青ヶ島村教育委員会編『青ヶ島の生活と文化』(1984年)に写真掲載の「焼酎ガメ」は、「種子島と思われる」と解説されているが、このカメは、琉球の壺屋焼の可能性もあるのではないだろうか。
 種子島で江戸中期から明治まであった「能野窯」・「野間窯」二種の窯は、鹿児島の苗代川窯の流れを汲んだ焼物で、そのルーツは豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、半島より連れて来られた陶工たちの技術にさかのぼる。なお種子島焼きは、総じて島内向けの日用の器を作る、小規模な民窯であった。
 一方、壺屋焼は、「喜名焼」(読谷村)や「知花焼」(沖縄市)などの各地の窯を、1682年に琉球王府が現在の那覇市壺屋に移設統合したのがはじまりで、無釉の焼き締めの「荒焼(あらやち)」と多彩な釉薬を施した「上焼(じょうやち)」の2種類の焼物を製造していた。
 琉球陶器中興の祖と仰がれた仲村粱致元(なかんだかりちげん)は1730年に鹿児島の苗代川窯に渡り、朝鮮の製陶法を学んでおり、王府時代の焼物も、鹿児島の朝鮮陶工たちの技術から強く影響を受けて発達してきた。焼き締め陶「荒焼」はそのルーツを東南アジアからの泡盛の技術伝播に持つと言われている。泡盛の元祖はシャムのラオロン酒で、この酒の容器としてシャム南蛮ガメが伝来した際に、カメの製造技術も一緒に伝わったというのが定説である。
 青ヶ島では天明の大噴火でそれ以前に島に渡っていた陶器のほとんどを消失しており、今、島に現存する器は、還住が成就した天保6年(1835)以降に島に入った物と考えられる。避難先の八丈島で長年使われて来た器が運び込まれた場合もあろう。
 問題の焼酎ガメの写真は白黒で小さく識別が難しいが、褐色の釉薬(陶器の表面をおおうガラス質の膜)が施されているのであれば、種子島の能野窯の物という可能性が高い。一方、釉薬が掛かっていない焼き締めならば、壺屋窯である可能性が出てくる。
 種子島焼と壺屋焼は、共に鹿児島の苗代川窯の影響を受け、器の形などが類似しており、判別しにくいが、一番の違いは窯場の規模である。小規模な民窯だった種子島の能野窯に対し、壺屋焼は王府の手厚い保護により分業化されたいわゆる御用窯で、その製造能力と流通の度合いは、能野窯の比ではなかった。壺屋の器は当時の日本にある程度伝わり、使われていたようで、江戸の大名屋敷跡からも焼き締めの器が発掘されている。
 実物のカメを見たわけでもなく、ましてや古陶磁の研究者でもないが、「青ヶ島の焼酎ガメ」は沖縄の壺屋窯で作られ、長い時間と人の手を経て青ヶ島に伝わった、あるいは航海技術にたけた琉球の船乗りたちによって、青ヶ島にもたらされた、という夢想のような仮説を立てたいと思う。



10 対馬と八丈島の亀卜 1
      卜部たちがいた島
            

 「……壱岐の海人(あま)の 上手(ほつて)の卜部を 肩焼きて 行かむとするに 夢のごと 道の空路(そらぢ)に 別れする君」(『万葉集』巻一五)。
 天平8年(729)、新羅へ向う途次、壱岐島で病死した雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)を悼んで詠んだ六鯖(むさば)作「長歌」の一節である。壱岐・対馬の沿岸は、朝鮮半島への航路だった。江戸時代の国学者伴信友(ばん・のぶとも)はこの挽歌を、新羅への船出が吉か凶か、壱岐の卜部が占おうとした矢先に死んでしまった宅満に捧げた歌と解釈している(『正卜考』)。
 なお「海人」の「卜部」という表現について、「この島人、多く海辺に住みて、漁を業とせるによりて、……島人といふがごとき意(こころ)ばえ」と述べるが、もしかしたら本当に「海人の卜部」であったのかもしれない。
 さてこの歌に「肩焼く」とあるように、鹿の肩骨を焼くのが古来の占法だったが、ほどなく大陸伝来の亀卜にとって変わった。それを専門にする職掌こそ、「卜部」にほかならない。
 周知のように平安初期の『延喜式』「臨時祭式」には、「卜部は三国の卜術優長なる者を取る」として、「伊豆五人、壱岐五人、対馬十人」をあげている。占事のスペシャリストとして三国の卜部が、いかに重用せられていたかが知られよう。
 それにしても「五人」の卜部を出した「伊豆」とはどの島のことなのか。『文徳実録』や『三代実録』などには、「伊豆国の人」「平麻呂」なる人物が幼少の頃から亀卜を習い、神 官の卜部となって活躍したとの記事が散見されるが、どこの出身かは記されてはいない。ただ鎌倉初期に成立した『古事談』「亀甲の御占」の項には、「伊豆大島の卜人は、みな亀卜をする。堀河院の時代に、この島より卜人3人上洛して、占いに奉仕した」と見える。信友はこの「大島」を八丈島の「古名」としている。島に亀卜の伝書が残ることなどを勘案すると、亀卜に関しては八丈島が「伊豆の卜部」の中心だったとみてよいのではなかろうか。
 江戸期の八丈島では、中之郷村の卜部と樫立村の卜部の2軒が正月にその年の五穀の豊熟を占ったが、明治の中頃に絶えた。それに対し「十人」の卜部を中央に派遣した対馬では、遥か時代を経た現在でも亀卜を行う祭りを伝えている。八丈島の亀卜を考える上で、対馬の亀卜はゆるがせにできない。
 安政6年(1859)に成立した対馬藩士中川延良編の聞き書き集『楽郊紀聞』によれば、当時の対馬には、府内(厳原)と地方合わせて7軒ほどの亀卜の家があった。なかでも府内の恵比須社の先々代神主吉野右膳は亀卜の名手で、日頃から風による障子紙の破れ方を見ては亀卜のひびになぞらえ、あれこれ判じ方を考えていたという。
 「この神主の家は海のはたなので、潮風に晒されて紙質が弱くなり、強風が吹くと自然に破れて亀甲の裂け目のようになったのだろう。通りすがりにその障子を見たことがある」と、中川延良はコメントしている。
 島の生活ならではの風と障子紙による亀卜の熟達法も面白いが、いかに亀卜が大切であったかも窺える記事だ。          (和光大学教授)



11 対馬と八丈島の亀卜 2
      亀蔵とネズミ藻
            

 かつて10人もの卜部を中央に派遣していた対馬は亀卜の本貫地だった。江戸時代、対馬の亀卜は「殿様の御占・郡中の焼占」(『対州神社誌』)、つまり公けの儀礼として執行されている。しかし明治以降は途絶え、豆酘(つつ)の「雷(いかづち)神社」(嶽大明神)に習俗として残るのみとなった。問答の文句から「サンゾーロー祭り」とも呼ばれる。
 「豆酘の嶽大明神の祭りは、正月三日、さん候祭りと云う。船浮かしと云う所より、鼠藻を取り、桃の枝に掛けて持ち来る」(『楽郊紀聞』)。
 祭事を務めるのは卜部(岩佐氏)と供僧(ぐそう、正膳家)だが、もう1人なくてはならぬ神役が、「亀蔵」(きぞう)である。亀の甲羅を管理する職掌から、かく呼ばれるようになったらしい。
 祭りの当日、亀蔵は、「ネズミ藻」を採るため桃の枝の御幣と餅を携えて潮の引いた「船浮かし」の浜に向かう。なお「船浮かし」とは、神功皇后征韓の故事にちなんだ船行事で、現在でも行われている。
 海岸への行き来にも作法があって、往きには3カ所の磐境(いわさか)に餅を供えて祈り、帰りには同じ磐境にネズミ藻を供えてから、亀蔵は雷神社へ戻る。神社での亀卜行事についてはのちに述べるとして、今回は「ネズミ藻」に注目してみよう。
 桃の木は魔除けの具にしばしば用いられるが、ネズミ藻というのは珍しい。けれども対馬では亀卜の祭りだけではなく、新春の「船玉祭り」では船玉様に捧げる神饌として、また頭屋による「赤米神事」では「神移しの媒介・依代」として重用されてきた(城田吉六『対馬・赤米の村』)。
 「ネズミ藻」は、学名「ウミノトラノオ」といい、この近海の浅瀬にはどこにでも生えている海藻で、成長すると1メートルにもなる。
 海の民ならではといえても、食用でもないありふれた海藻が、なぜ神事において不可欠で特殊な役割を担ってきたのだろうか。大晦日の夜、関門海峡を挟んだ住吉神社と早鞆神社で行う「和布刈(めかり)神事」が、初穂としてワカメを刈り採るのとは、かなり趣きが違う。
 もしかしたら、「ネズミ」藻という呼び名に鍵がひそんでいるのではあるまいか。とすればたぐり寄せてみたくなるのが、「おむすびころりん」に似た昔話「鼠の浄土」である。
 各地に残るこの昔話はもちろん対馬にもあって、昭和12年に対馬を訪れた鈴木棠三は三話ほど採集している(『くったんじじいの話―対馬の昔話』)。ネズミ藻の謎は、まだ追いかける価値がありそうだ。             (和光大学教授)



12 対馬と八丈島の亀卜 3
    キンジニヤニヤ猫の声すればよー
            

 戦前に鈴木棠三が、対馬の阿連(あれ)で採集した「鼠浄土」の一つはこんな話だ。
 ――山で爺さんが石を穴にころがり落とすと、「石コロコロ、スットントン」と聞こえた。次に団子を落とすと「団子コロコロ、スットントン」。杖も落とし、最後に爺さんが穴に入ると、そこは鼠の国だった。鼠は、「ニャーという声を言うてくれるな。出せばくれの闇になってしまう」と言って聞かせ、ご馳走でもてなした。鼠たちが「猫がおらねば、鼠のよがた」と歌いながら米を搗く様子が面白かった。
 金の袋を土産にもらって家に帰った爺さんから、話を聞いた隣りの悪い爺さんは、真似をして鼠の穴に入った。同じようにもてなしを受けたが、米搗きのときに「ニャー」と言ったので、鼠は逃げてしまい、爺さんは穴に埋まって、二度と出ては来られなかった(『くったんじじいの話―対馬の昔話』未来社)。
 母から聞いた紀州の鼠浄土譚(「キンジニヤニヤの話」)に強く惹かれたのは、作家中上健次である。ルポルタージュ『紀州―木の国・根の国物語』(1978年)には何度もこの話が登場する。いや登場するだけではない。中上は、餅搗きの歌に押し出されるようにして紀州を巡っている。話を録音したテープを携行し、旅先で人に聞かせているほどだ。
 キンジニヤニヤ猫の声
 すればよー
 ここは袋の御用ねずみ
 よー
 思い返せば1985年に開いた中上との座談会でも、彼はこの昔話を話題にしていた。「キンジニヤニヤ」という言葉を聞くと、「こわくて不思議な感じがした」体験や、話言葉の魅力と魔術性について等など、今なお記憶に鮮やかだ。
 さて鼠の浄土譚は一種の異郷訪問譚で、「根の話と重なり、さらに竜宮伝説や羽衣伝説ともつながる」わけだが、中上にとってこの話の急所は、タブーを破って猫の声を出すと、「そこらいっぺんまっくら返れ」の呪文で、「世界を闇にもどす」ところ。「猫の声」というレベルは、通念や、法律や、国家を示している。「闇のユートピア」、「根の国にのみ、異類と人の交感、交通はある」。
 中上にとって根の国は、「被差別部落」に重なり、地底への道行きは、そのまま紀州の「路地」への旅となる。『紀州』の副題を「根の国物語」としたのには、深い思いがたくまれていた。
 それにしても、なぜ「鼠の国」が地底の浄土=「根の国」なのか。その問いの先に「ネズミ藻」の謎が絡みついているはずだ。  (和光大学教授)



13対馬の亀卜 4
    鼠の浄土
       



 子年にちなんで連載の再開は、松尾芭蕉が「歳旦開き」の句会で作った俳諧で飾ることにしよう。
 人声の沖にて何を呼ぶ
 やらん(桃鄰)
  鼠は舟をきしる暁
       (芭蕉)
     *
 対馬の豆酘(つつ)では亀卜神事でも、頭屋が行う赤米神事でも、ネズミ藻が欠かせない。食用でもなくありふれたこの藻が、なぜこれほどまで重用されているのか。ネズミ藻の謎から、昔話「鼠の浄土」がたぐり寄せられてきたのだった。
 爺さんの握り飯がころがった地底は宝の国で、鼠たちは餅を搗いていた――。この昔話を旅の道連れに紀州をめぐった中上健次は、枯木灘に近い和深(わぶか)で、土地の人に鼠浄土の話を知ってるかと尋ねている。知らないとの返事に、ちょっとがっかりしたのか、「鼠浄土は、聴力と、想像力をきたえて、はじめて入り口が見えてくる」(『紀州―木の国・根の国物語』)と書いた。
 「鼠の浄土」にさしたる関心のなかった中上だが、執拗にこだわったのは柳田國男である。農作物を食い荒らす害獣の鼠が、なぜ宝をもたらす主となるのか。「小さな昔話ではあるけれども、「鼠の浄土」の成り立ちには、一朝には説き尽くされぬ歴史があったようである」(「鼠の浄土」『海上の道』所収)。
 鼠が海を渡るという事象や所伝を手始めに、主に南島に目を向けた柳田は、鼠の尊称(殿ガナシやウンジャミガナシ、ニライソコモイ)や鼠送りの習俗、日の神の子とする神話などを拾いながら、影の集団でしかなかった鼠を理論の水際へと追い込んでゆく。鼠は「ニライに属する尊者と認められて」おり、「ニライカナイから渡ってきたものと、昔の人たちには考えられていたらしい、ということだけは述べておきたい」。
 論考「鼠の浄土」は、冒険的な推論の旅であり、想像力を駆使した一篇の詩学ともいえる。それゆえにニライと根の国との関係・転変など、テーマは複奏するが、さしあたり今は、鼠と他界との密接なつながりの「歴史」をみてとればよい。
 ここで対馬のネズミ藻に戻ろう。柳田の引く『古今著聞集』には次のような話が見える。
 伊予の黒島のとある浜で、水面がおびただしく光った。魚かと網を引いたら大軍の鼠で、それ以来、島は鼠で溢れ、畑の作物を食い荒らしたという。
 ネズミ藻(学名ウミノトラノオ)は絡み合うように繁茂し、成長すると1?以上になる。その形状や生命力が鼠の集団性や繁殖力を連想させ、いつしかネズミ藻と呼ばれるようになったのだろうか。そこには、鼠たちの海彼の他界、「鼠の浄土」観が作用していたと思いたい。
 赤米頭受け神事では、新頭屋の家に到着した赤米俵(御神体)の両側にネズミ藻を差してから、海水でネズミ藻と御神体を清める。この作法は赤米が対馬に伝来した遠い昔の記憶によるもので、ネズミ藻は「神移し」のなかだち・依代という(城田吉六『対馬・赤米の村』)。次回から扱う亀卜も大陸から半島を経て伝来した。対馬の「ネズミ藻」は、古くからの他界観と海の道の秘密を宿して、私たちに鼠の浄土譚の続編を強いるかのようだ。
               (和光大学教授)


14 対馬の亀卜 5
    鼠の浄土
 

 対馬豆酘(つつ)の儀礼に欠かせないネズミ藻をめぐっていささか寄り道をしたが、ここで話題を本筋の亀卜に戻すことにしよう。
 「対州の儒者雨伯陽といふもの、はじめは信ぜざりしが、効験を見て感服せしとぞ」(『譚海』)。
 近江国出身の儒者・語学者雨森芳州は対馬藩に仕え、李氏朝鮮との外交に活躍した。自著『喫窓茶話』に「私は対馬に来てはじめて亀卜を見た、珍しい」と記し、また随筆集『たはれ草』には、「此の国に伝えし亀卜は、古の遺法ならんと覚ゆ」を枕に紹介し、「口授秘伝なりといひて、ふるきことのつたはりがたし。をしむべしといふべし」と、学者らしい感想で結んでいる。雨森のような開明的な人物が「認知」したほどに対馬の亀卜は由緒があり、重んじられていたのである。
 かつて亀卜の家は、府内・田舎を合わせて10軒、またはそれ以上あったという(中川延良『楽郊紀聞』)。まさに対馬は亀卜の島といってよいが、ではいったい、どこで始まったのだろうか。現在、亀卜の習俗を残すのは豆酘の雷命神社(岩佐家)だけだが、対馬西海岸の佐須郷「阿連」が濫觴の地らしい。
 阿連は白岳に源を発する阿連川の下流流域の村で、集落は海に迫る。ちなみにこの阿連川は、潮が引き、雨が10日も降らないと水無しの川原となってしまう。
 戦前に阿連に来て、対馬きっての語り部「くったんじじい」から昔話を採集したのは鈴木棠三だった。また宮本常一は、昭和25年の「八学会連合」による対馬の総合調査に参加し、7月末に隣村の小茂田から舟で阿連に入っている(『私の日本地図15壱岐・対馬紀行』)。
 当時阿連は、水害や鉱山の排水による漁業被害など深刻な問題を抱えていた。宮本は、「記憶のよい」「栗田老人」から「朝から夜まで村の成立や変遷について」聞き取りをしている(この老人が、かの「くったんじじい」と思われる)。
 宮本は阿連に、「橘という旧家があり、同族結合がきわめてつよい」、「中世的な結合が残っている」村との印象をもった。彼は訪問しなかったが、この「橘という旧家」こそ、雷命神社(八龍社)代々の神主家で、昔は対馬で名を馳せた亀卜の家であった。
 昨年12月、阿連へ行き、「オヒデリ様の元山送り」という祭礼を見学し、橘宅での直会では、対馬の地酒「白岳」と新鮮な刺身・いりやきそばをごちそうになった。当主で神主の橘一門氏は、ふだんは漁師さん。阿連で一番の潜りの名人である。
 橘家は火災で伝書のすべてを失い、亀卜の伝法は絶えたが、阿連と橘家が亀卜の本貫地であった消息は、伝承や旧跡などで窺い知ることができる。『楽郊紀聞』から、二、三拾ってみよう。
 「同村には、雷大臣命の古跡多し。橘氏の家に、能く知れ居けるとぞ」。阿連は神功皇后の新羅征討に同行した雷大臣命が初めて亀卜をした地という。
 また仁位などいくつかの地に、阿連から八龍社(または雷命社)が勧請された際、亀卜の法も相伝された。「亀卜の事を、阿連村より受け伝えし節に勧請したるといひ伝ふ。これは古き事なり」。
 こうして対馬亀卜の発祥地にして本貫地の阿連が浮かびあがってくる。始祖を雷大臣命とするその所伝は、神功皇后伝承と深く関わっていた。
               (和光大学教授)



15 対馬の亀卜 6
    「対馬日記」と以酊庵
 

 文化8年(1811)5月、佐賀藩の学者草場佩川は、朝鮮通信使を迎えるため幕命を受けた師に随行し対馬に渡った。『対馬日記』は、その二ヶ月余りの見聞録である。他国人の眼で、対馬や朝鮮通信使一行の様子が活写されており、画才を生かした地図や挿絵も興味深い。
 6月12日、「韓客、以酊庵ニ避暑ノ出遊ヲナス」。佩川は、朝鮮通信使たちが「以酊庵」で遊び、「上下思ヒくに逍遥シテ」帰る様子を書き留めている。曲馬で疾駆してゆく者、酔って千鳥足の者。身分の高い1人は、2人の童子が脇を抱え、もう1人の童子が腰を押し、もたれるように歩く――。ちなみにこのスタイルは、朝鮮の高級官人が威儀を示すためらしい。
 天正8年(1580)、藩主宗義調は日朝外交の推進のために、外交僧として博多聖福寺の景轍玄蘇を対馬に招聘した。この玄蘇によって創建された禅寺が以酊庵で、藩の外交文書を取り扱う機関として朝鮮外交の拠点となった。しかし玄蘇の後継者玄方が以酊庵住持の時、権力争いを背景に対馬藩による国書偽造が露見する(柳川一件)。
 ちなみにこの問題は、昨年暮れにNHKが「その時歴史が動いた/対馬藩・決死の国書すり替え〜朝鮮通信使秘話」で取り上げている。番組には登場しなかったが、改竄・偽造の作業は、しばしば以酊庵で行われた。
 一件落着後幕府は、この以酊庵に京都五山の僧を輪番で常駐させ、外交文書作成や使節の応接と藩貿易の監視などを命じた。つまり対馬藩にとって目の上のたんこぶとなった以酊庵だが、韓客接待と人的交流の場であり、かつての大宰府・鴻臚館のような、ウォーターフロントとして機能した。学問所的な役割も見逃せない。
 『対馬日記』に戻ろう。翌6月13日に佩川は、以酊庵の僧玉堂から亀卜について話を聞いている。玉堂は、借りてきた亀卜の甲を見せながら、南岳院の山伏が「灼ク法」を伝え、八幡の神主が「占法ヲ掌」っているが、秘伝であること、前年に土御門家から伝授の要請があったが、南岳院も八幡宮も応じなかったことなどを話した。  
 亀卜の作法は、「線香ノ火ヲ以テシテ、図スル卜ノ形ヲ書ケバ、プチくトヒヾメ表ニ透ケル。時ニ鐫穴ノ方ヨリ墨ヲ入レバ、ソノ象、鮮ヤカナリ」。
 のちに紹介するように亀卜にはいくつかの法流があるが、江戸時代の対馬はもちろん、伊豆諸島の亀卜も「はゝか」(桜の一種)の木を燃やして甲を灼く。「南岳院などのは、又少し違いたるにや」(『楽郊紀聞』)と言われるように、線香の火を用いる作法は、いかにも山伏らしい。
 さて対馬の亀卜は他国人の佩川に強い印象を与えたようで、彼は後日、関東からの客人と交した亀卜の話を書き込んでいる。客人曰く。常州鹿島神宮の昔の祭礼では、池の「霊亀」の甲を灼き、「世の変の吉凶」を占ったが、中古からは松の木で亀の形を作り用いるようになった、と。「事の誤伝」はこのように起こるのだろうとは、佩川のコメントである。             (和光大学教授)