写真資料室


江戸時代まで八丈島の中心地だった大里地区



 玉石垣が残る大賀郷大里地区を伝統的建造物群に選定する調査が進行中です。今は姿を消した建造物を中心に、古い時代を伝える写真を集めました。


宗福寺  宗福寺。昭和初期に取り壊されたといわれています。この写真は、大正年間に発行された「八丈島仙郷誌」(大脇繁吉氏著)に載っているものです。

代官屋敷跡  島の総鎮守「優婆夷宝明神社」。大正時代か昭和初期に発行された絵葉書「八丈島の史蹟集」の1枚。代官屋敷跡より望む、と説明書きが印刷されています。

古民家  大里にあった古民家。1軒の家の敷地内には、母屋のほかに、両親が住む隠居屋、穀物などを貯蔵する高倉、閑所(トイレ)、牛小屋が建っていました。


 ▼下の絵は、大里地区にあった陣屋(島役所=都指定旧跡)の写生図。

 1838年(天保9年)に、伊豆国代官・羽倉簡堂が伊豆七島巡視の際、渡辺華山の勧めで随行した画家・永村茜山(ながむらせんざん、1820〜1862年)が描いた「八丈島全図真写」14点のうちの1枚です。南海タイムスでは1984年(昭和59年)の新年号で、永村茜山という画家の人物像とともに、この絵を紹介しました。
 江戸時代の八丈島を知るには、こうした代官の巡視記録は欠かせません。1796年(寛政8年)に伊豆国代官・三河口太忠の「伊豆諸島巡見記録」には、随行した文人・小寺応斎が島の女性の服装や盆踊り、機織り風景など、興味深い絵を多数残しています。
 アップした絵の空白部分のシミは多少修正を加えました。
 陣屋跡として知られるこの役所跡は、北条早雲の代官・中村又次郎が1528年(享禄元年)に築いたものです。以来、徳川幕府300年の幕政を経て明治41年に至るまで、大里地区が八丈島統治の本拠でした。現在、建物は存在しませんが、周囲の玉石垣がその跡をわずかに伝えています。
 島役所の間取りは、1782年(天明2年)に江川太郎左衛門の手代らによる「七島巡見志」に詳細に記録されており、この永村茜山の絵をもとに、模型による復元は可能と思われます。

陣屋


玉石垣
 島役所跡の変遷をたどると、まず左の写真のように、玉石垣が崩され、バスが入るぐらいに入口が広げられます。昭和30年代後半か40年代前半に撮影された写真と思われます。

陣屋跡為朝園
 陣屋跡といわれているところに、昭和40年代前半、観光売店「陣屋跡為朝園」が建ちます。これはそのパンフレットです。
 左上に、八丈八景のひとつ「大里晩鐘」を復元した「鐘つき堂」(現在はもうありません)が見えます。
 この旧跡は今、向かいの大里会館の駐車場などに利用され、敷地内の鬱蒼とした森は畑に変わっています。


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