始祖伝説 問われる真偽 原本にない丹那婆伝説
(2005年9月30日付 南海タイムス)


 八丈島の始祖とされる「丹那婆(たなば)」の伝説は、『八丈実記』によると『旧昔綜嶼噺話(きゅうせきいとじまばなし、以下綜嶼噺話)』(高橋與市著)に書いてあることになっているが、現存する同書3冊を照合した結果、実記の記述とは内容が大きく違っていることがわかった。丹那婆伝説は明治以後、各文献で取り上げられ、独り歩きしている。郷土史の洗い直しが町の課題として浮上してきた。

 

 八丈島の始祖伝説のひとつに、「大津波で一人助かった妊婦が男子を産み、その子が成人してから母子交合して子孫を増やした」という大津波伝説がある。流人・近藤富蔵が『八丈実記』で『旧昔綜嶼噺話(きゅうせきいとじまばなし、以下綜嶼噺話)』(高橋輿市著)を引用し、末吉の墓誌にもなった「丹那婆(たなば)伝説」だ。
 しかし、『綜嶼噺話』には「女子を産む」とあり、それに続く内容もすべてが異なっている。近藤富蔵が引用した『綜嶼噺話』は異本だったのか、それとも富蔵が書き換えたのか。真実はそのどちらかだが、国内に現存する『綜嶼噺話』3冊を南海タイムス社で照合した結果、3冊とも原本の内容は一字一句違わないことがわかった。
 引用元の本『綜嶼噺話』は、八丈島出身の漢学者、高橋與市(よいち)が1819(文政2)年に著したもの。與市の実家であった三根、高橋整さん所蔵と、埼玉県狭山市、長戸路武さん所蔵(東京都公文書館保管)、愛知県西尾市の岩瀬文庫(古書の博物館)所蔵の計3冊が確認されている。長戸路家と高橋家所蔵の本は巻末に文政2年とあり、同書の刊行年と一致する。岩瀬文庫のものは1851(嘉永4)年の写本で、與市の6代目にあたる埼玉県入間市、高橋和夫さんがコピーを入手している。
 原本では、大津波で助かった妊婦は「女護島と言う故(ゆえ)・・女子を産む」とある。これに対し、富蔵は「男子を産む」とし、妊婦の名も「丹那婆(たなば)」、「抱櫓長子(ろかこみにょこ)」と書き加えている。
 これについては、伊豆諸島を研究した民俗学者の大間知篤三、金山正好、坪井洋文の3氏が、共著の『八丈島』(角川文庫 1966年刊)で、富蔵が『綜嶼噺話』を引用した内容が原本と違うことに着目し、「『綜嶼噺話』に異本があったのか、行文もかなり異なり、話もリアルになっている」と指摘している。
 『八丈実記』は、富蔵が島内にある古文書を書き写し、それに解釈などを加えた書物。與市が著した『綜嶼噺話』『園翁交語』等も多くのページで引用されている。『八丈実記』は緑地社が出版したことで研究しやすくなっているが、肝心の引用元である古文書類は活字化されておらず、研究者の目に触れる機会が少なかった。このことが、丹那婆伝説の真偽が問われないまま今日に至った大きな原因と考えられる。今後は文化財としての価値も含めて古文書類の活字化が課題として浮かび上がってきた。

 伊豆諸島の歴史、文化にくわしい菅田正昭氏は「始祖伝説を文献学的に実証的に調べていく作業は、郷土史分野ではほとんど行われていない。『八丈実記』についても、これを出版した緑地社の小林秀雄社長が、地元の研究者のチェックに期待をかけていた。古文献との照合も含めた総合的な研究をする『八丈実記学会』が必要」と指摘している。

 古文書に記録されている八丈島の始祖伝説は、徐福伝説をはじめ、ほとんどが女國とか女護島に関連する。丹那婆伝説が出てくるのは『八丈実記』だけで、その母子相姦という特異性から、「日本では他に例をみない」原始神話として、南太平洋の諸族に認められる一類型ともみなされてきた。
 女護島伝説といえば、江戸末期に刊行された『南汎録』(羽倉簡堂著)にも出てくる。大賀郷・釈迦堂付近にあった貢女の館跡の伝説で、「八丈島を女護島ともいうのは謂(いわれ)あることである」と書いている。一方、富蔵は貢女の館跡の伝説を『南汎録』から引用し、堂の左にある小石を「タナ婆ノ墓ナリト伝フ」と続けている。なぜかここでも女護島伝説は引用されていない。
 羽倉簡堂は名代官として知られ、伊豆諸島では1829(文政11)年から代官職を務めた。『南汎録』は1838年の伊豆諸島巡見日記。末吉村で流人に戒め(注意)を行った際、近藤富蔵とも会ったと記録している。
 果たして丹那婆伝説を書いた『綜嶼噺話』の異本は存在していたのか。三根地域では富蔵が3度ともいわれる自宅の火事で旧家などから借りていた古文書を焼いたと伝えられており、異本を確認することは難しそうだ。
 また、八十八江姫とその息子を祀る優婆夷宝明神社(総社)の二神についても、最近は丹那婆とその息子に結びつけて紹介されるようになっている。この史実も洗い直す必要が出てきた。

【高橋與市】 『旧昔綜嶼噺話』の著者。1753(宝暦3)年、三根村に生まれ、11歳で島を出る。18歳のとき江戸本湊町で黄八丈卸問屋「八丈島屋」の主人となる。28歳で学を志し、後漢学を研究。証拠学派を起こす。字(あざな)は正卿。雅号は敏愼。他に青洲、女護島、高閔愼と号した。論語、漢文古典の注釈書など著書多数。江戸の「諸家人名録」に名を連ねる文化人だった。天明の飢饉の時に飢民を救ったことや、文化年間(1804〜1817)に迷信を打破して島民のために神止山を開墾した功績などで、官の褒賞を受けている。

【近藤富蔵】 22歳のとき、父(旗本、近藤重蔵)の屋敷の権利問題から隣人の農家の7人を斬殺し、1827(文政10)年に八丈島流罪となる。明治20年に83歳で没するまで在島60年の間、古文書をもとに、島の百科事典ともいえる書物『八丈実記』69巻を残した。また、旧家の系図整理、仏像の修復、為朝の凧絵、石垣構築、夕学創始など、幅広く活躍し、顕彰碑が建立されている。

 丹那婆の墓は明治20年頃、末吉に建立された。町文化財に指定されたのは1976(昭和51)年。案内板には『大昔八丈島に大津波が襲い、妊婦の丹娜婆だけが舟の櫓にすがって生き残った。その後産み落とした男の子と母子交会し、子孫が増えて八丈島民となったという。これは日本の他の地域には類例をみない八丈島独特の始祖伝説であるが、丹娜婆信仰ともいうべき形で今に受け継がれている』とある。流人の平川親義が書いた墓誌に、「伝を近藤之手禄に閲し(近藤の調査)」と書かれている。

◎綜嶼噺話の原本→ 沖の島を女護島と云故は、時代は知れざれ共、大津浪にて人家を流す。其浪打合たる処を浪蓬田といゝて、今の三峯村。又神津祢村ともいう。大加郷、其頃は一村也。故に地續きて其堺近くにあり。偖其時、男女亡命多き中に孕女只一人櫓を抱て命を助り、女子を産。是より増長する故にいえるか。
◎八丈実記が引用した綜嶼噺話→ 嶋の口碑を綜嶼噺話云、いつれの時にやありし、八丈嶋に沓潮おこりて、民戸ともに湮没せしが、一妊婦のみ舟の櫓にすがりて、大岡郷川口ヶ洞に助命して一男子を出生し、後に母子交会して類葉繁栄す。この婦名はタナ婆、混号を抱櫓長子と呼べりされば。


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