08/1/1





 セミ・パブリックな空間
  失われたもの 求められているもの

 南海タイムスの最初の4ケタのゾロ目「1111号」は、1962(昭和37)年8月19日でした。この日の紙面には、44人乗りのフレンドシップ機が9月から東京‐八丈島間を就航する記事が掲載されています。
 戦後の復興が進み、日本人が元気を取り戻した昭和30年代がここ数年、ブームになっています。昭和33年には東京タワーが完成。八丈町の役場庁舎が新築されたのもこの年です。電気製品の冷蔵庫、洗濯機、テレビが「三種の神器」といわれ、慎ましい幸せがあった時代でした。
 昭和39年には東京五輪が開かれ、高度経済成長へ邁進します。日本中の誰もが「明日はもっと良くなる」と信じて、希望に満ちた日々を送っていました。当時の記録フィルムを見ると、その明るい表情がまぶしいほどです。
 70年代から80年代は安定した経済成長が続き、9割の国民が自らを中流階級ととらえていました。少しがんばれば、誰もが車やマイホームに手が届くようになったのです。
 次のゾロ目、「2222号」は84(昭和59)年9月26日でした。町制30周年の節目に「八丈町憲章」が町議会で議決されたことが報じられています。国内ではグリコ・森永事件の怪人21面相、投資ジャーナル事件が世の中を騒がせました。80年代後半から日本列島は株価や地価が過剰投機によって実体経済以上に上昇するバブル経済の狂乱に飲み込まれていきました。「働かないお金持ち」が日本中にあふれたのは、このころです。
 そしていま、日本は横並びの総中流社会から、弱者が生きにくい格差社会へと変貌を遂げようとしています。世界規模では地球環境問題が深刻な事態を迎えており、食料や水、石油などを巡る国際紛争も混迷を深めています。 

今の昭和回帰ブームを「単なる懐かしい時代への郷愁ではない」と指摘するのは、ベストセラー「下流思考」の著者・内田樹(うちだ・たつる)さんです。
 「昭和30年代の日本には今の日本から失われてしまった暖かみのある共同体が残っていた」と内田さんは言います。先にテレビを買った人は近所の人に見せていたし、電話のある家の人は、隣にも取り次いでいた。「地域の人たちが少しずつ迷惑をかけあいながらも、それを当然のこととして受け止め、助け合いながら生きていた時代だった」としています。
 それが徐々に崩壊し始めるのは昭和40年代以降です。最初の兆候は改築した近所の家がコンクリートの塀を巡らせたことでした。内田さんは、「地域からパブリック(公的)なものが後退し、プライベートなものが優先される社会を示す光景」と、とらえます。
 その果てに行き着いたのが「自己決定・自己責任論」。人に迷惑をかけない代わりに、誰の面倒もみないという、息の抜けない社会です。何事にもお金が介在し、利害、損得の意識が強まりました。

 幸い八丈島には、暖かい肌ざわりの人情と地域のつながりが、今も残されています。島を訪れた人たちが島民とふれあい、「ほっ」とするのは、そうした空気を無意識に感じとるからでしょう。
 昨年、歩道設置に伴う都道拡幅の説明会で、「この道は周辺の生け垣や庭がきれいでとても好きな道。工事でどう変わるのかな…」と危惧する住民の声を聞きました。公共事業で広くてりっぱで便利な道路が整備されても、その通りを歩く人がほんとうに心のやすらぎを得られるのは、道路の周辺にある、そこで暮らす人たちの息づかいが感じられる風景です。
 パブリックなものというと、すべて行政まかせにする風潮が強まっています。かつては、公共施設でなくても誰もが共有していた空間や、頼まれてはいないけど、ちょっとおせっかいを焼くような人づき合いが普通に存在しました。かといって、若い世代は「窮屈」を感じるような濃密な人間関係は求めていません。
 必要なのは人や地域がゆるやかなつながりを維持し、困ったときにはお互いに手を差しのべ合うことができる「新しいコミュニティー」です。私たち島民一人ひとりが、今より少しでも「セミ・パブリック」な意識を持って、主体的に行動していくことから始めてみてはどうでしょうか。